犠牲者慰霊碑(野田市、円福寺)

関東大震災と福田村事件

福田村事件は、大正12年(1923)9月6日、関東大震災後の大混乱と流言蜚語(デマ)が生み出した社会不安の渦中で、香川県からの薬の行商団15人が千葉県の旧東葛飾郡福田村三ツ堀(現野田市三ツ堀)で地元の自警団らに暴行され、9人が殺害された何とも無残な事件である。

同年9月1日、関東地方は前夜来の風雨も次第に収まり、朝にはところどころでにわか雨が降る程度になっていた。午前11時58分32秒、神奈川県西部から相模湾さらには千葉県の房総半島の先端部にかけての地下で断層が異常に動き始めた。<生き地獄>の予兆である。関東大震災は南関東で震度6(当時の最高震度)を記録した。

関東大震災の関東地方を中心とする犠牲者総数は10万5000人余りに上るとされ、日本の自然災害史上類例を見ない未曾有の大災害であった。(犠牲者総数は資料により異なる)。同大震災では、相模湾の海水が激しい動きを示し津波となって沿岸各地を襲った。大島(現東京都)の岡田で12m、伊豆半島の伊東で12m、房総半島の南端布良(めら)付近で9m、三浦半島の剣ヶ崎で6m、鎌倉で3mの高波となって襲来した。いずれも壁のような津波である。

卑劣な流言飛語と朝鮮人虐殺

情報を遮断された帝都のちまたでは恐るべき暴力が広まっていた。流言蜚語の鬼火がパニック状態の民衆にとりつき、自警団や警察・軍隊の手によって朝鮮人の大虐殺が行われたのである。官憲がデマ情報を公言する中で民衆が起こした蛮行は、都市復興に邁進しようとする政府や東京市(当時)を背後から脅かした。

横浜市内に発生したとされる朝鮮人に関するデマは東京市内に激流の走るように流れ込んだ。おびただしい流言はすべてが事実無根であり、一つとして朝鮮人の来襲・井戸への毒流入などを裏付けるものはなかった。

流言は、通常些細な事実が不当に膨れ上がって口から口に伝わるものだが、関東大震災での朝鮮人来襲説は全くなんの事実もなかった。官憲(政府)の調査によっても確認されている。大災害によって人々の大半が精神異常をきたしていた結果としか考えられない。その異常心理から、各町村で朝鮮人来襲に備える自警団という自衛組織が自然発生的に生まれたのだ。彼らは暴徒集団化していった。

自警団は町村自衛のために法律で禁じられた銃器類など凶器を手に武装した。自警団の数は、9月16 日の調査によると、東京府、東京市で実に1145の数に上った。所持していた凶器は、日本刀、仕込杖、匕首(あいくち)、金棒、猟銃、拳銃、竹槍などであった。暴力の炎は、朝鮮人の虐殺から社会主義者・キリスト教徒の拘束、謀殺、さらには憲兵大尉・甘粕正彦によるアナーキスト大杉栄と内妻伊藤野枝、甥の少年の虐殺へと導火していく。自警団らの狂気による殺害・蛮行は、朝鮮人ばかりか日本人までも巻き込んだのである。

四国からの行商団を襲撃

同年3月に郷里の香川県西部(讃岐地方)を出た売薬(薬は当時の「征露丸」や頭痛薬、風邪薬など)行商団15人は、関西地方から各地を巡った後、群馬県前橋市を経て8月初旬に千葉県西部に入った。9月1日の関東大震災直後、4日には千葉県でも戒厳令が敷かれ、同時に官民一体となって朝鮮人などを取り締まるため自警団が組織・強化された。利根川べりの農村・東葛飾郡福田村(現野田市)でも自警団らが村中を警戒して回った。(以下、「福田村事件」(辻野弥生著、崙書房(流山市)を参考にする。同書は調査の行き届いた良書である)。

「柏市史 近代編」によれば「自警団を組織して警戒していた福田村を、男女15人の集団が通過しようとした。自警団の人々は彼らを止めて種々尋ねるが(言葉が)はっきりせず、警察署に連絡する」、「ことあらばと待ち構えていたとしか考えられない」という状況だった。虐殺は、関東大震災発生から5日後の同年9月6日の昼ごろに起きた。東葛飾郡福田村三ツ堀の利根川近くで休憩していた行商団のまわりを興奮状態の自警団約200人がとり囲んで「言葉がおかしい」「朝鮮人ではないか」などと差別的暴言を浴びせていた。(香川県讃岐地方の方言が通じなかっただろう)。国歌を強制的に歌わせたり、「いろはにほへと」を繰り返し言わせたりした。

福田村村長らが「日本人である」と言っても群衆は耳を貸さず、なかなか収まらなかった。そこで駐在所の巡査が本署に問い合わせをするため現場を離れた。この直後に惨劇が起こった。現場(同村香取神社周辺)にいた旧福田村住人の証言によれば「もう大混乱で誰が犯行に及んだかは分からない。メチャメチャな状態であった」。生き残った行商団員の手記によれば「自警団員は棒やとび口を頭へぶち込んだ」「猟銃の銃声が二発聞こえ」「バンザイの声が上がった」。駐在の巡査が本署の部長と共に戻って事態をおさめた時には、すでに15人中、子ども3人を含めて9人が無残にも惨殺された後だった。その惨劇ぶりは目を覆いたくなるばかりであったという。

遺体は利根川に流され遺骨も残っていないという。駆けつけた本署の部長が、鉄の針金や太縄で縛られていた行商団員や川に投げ込まれていた行商団員を「殺すことはならん」「わしが保証するからまかせてくれ」と説得したことで、かろうじて6人の行商団員が難を逃れ生き残った。

惨殺犯への<甘い>処遇

逮捕されたのは、福田村の自警団員4人と隣接する田中村(現柏市)の自警団員4人の計8人である。8人は騒擾(そうじょう)殺人罪に問われたが、被告人らは「郷土を朝鮮人から守った俺は憂国の志士であり、国が自警団を作れと命令し、その結果誤って殺したのだ」などと自己弁護に終始した。当時の予審検事は、裁判の前から「量刑は考慮する」と新聞記者らに語っていた。彼らが逮捕された頃、田中村の村会議で4人の被告に「見舞金」の名目で弁護費用を出すことを決め、村の各戸から均等に徴収している。

殺人犯も暴徒を出した村も「罪の意識」などカケラもないのである。

判決は、田中村の1人のみ「懲役2年、執行猶予3年」の第二審判決を受け入れたが、あとの7人には大審院で懲役3~10年の実刑判決が出された。だが受刑者全員が、確定判決から2年5カ月後、昭和天皇即位による恩赦で釈放された。事実上の無罪放免である。  

事件の全容は今なお解明されていない。だが「行商団一行の話す方言(讃岐弁)が千葉県の人には聞き慣れずほとんど理解できなかった」「千葉県の人との意思疎通の際に話す共通語も発音に訛りがあり流暢でなかった」などを理由に朝鮮人と見なされ、一連の残虐事件が起こったとされている。当時22歳で生き残った行商団員が残した手記や、当時14歳の行商団員の証言でも、地元の船頭(自警団員)との言い争いの中で「どうもお前の言葉は変だ、朝鮮人と違うのか」と追及され、自警団が集まってきたことは間違いない。当時の防犯ポスターには「あやしい行商人を見たら警察へ連絡せよ・千葉県警」と書かれているものもあり、貧しそうな行商人に対する蔑視や差別の構造もあった。虐殺に走った自警団員の中に「どうせ、どこから来たのかも知れぬ行商人ではないか」という非人道的意識が働いた者もいたであろう。