「黎明の鐘」になれ!

オリンピック予選会での記録については、特に金栗四三のものに注目が集まった。世界記録が2時間59分45秒だとされていたから、金栗四三の記録(2時間32分45秒)はそれを27分も縮めたものと伝えられ、皆が興奮した。

「金栗選手、世界記録を破る」と書いた号外を出した新聞もあった。一部に「距離の計算が間違えているのではないか」との疑いも出たこの時、嘉納会長の談話にこうある(「日本スポーツ創世記」)。
「里程の測定は、当然測定器を以て実施に測定するのが本当であるけれども、それにしては余りに金と日時がかかるので、永年そのことに従事していた京浜電気会社の中沢工学士に相談して、参謀本部の2万分の1の地図においてコンパスを以て精密に測量してくれた。私もまず実際に25マイルあるものと信じるほかない。…」

日本代表の金栗選手にオリンピック日本選手団・嘉納治五郎団長自らが次のように言い聞かせた。

「我が国はまだ各方面とも欧米の先進国に遅れ、劣っている。取り分け遅れている部門に体育スポーツがある。オリンピックは欧米諸国参加のもと、すでに20年前に開催されている。私は高等師範の校長として全生徒に放課後に1時間の課外運動をやらせ、君も徒歩部員として毎日走っているが、日本の他の大学ではほとんどこんな時間は与えていない。君の準備が十分ではなく、万一ストックホルムのマラソンで敗れたとしても、それは君一人の責任ではない。何事によらず先覚者たちの苦心は、昔も今も変わりはない。その苦心があって、やがては花の咲く未来をもつものだ。日本スポーツ発展の基礎を築くため、選手としてオリンピック大会に出場してくれ・・・」、「最善を尽くせばいいのだ」(「嘉納治五郎」嘉納治五郎先生伝記編纂委員会)。金栗は「私には荷が重すぎる」と逡巡した。問題の渡航資金は嘉納が各方面に呼び掛けて工面した。

金栗四三の気持ちは変わらなかった。嘉納はさらに言葉をついで彼に翻意を促した。有名な「『黎明の鐘』になれ!」の言葉は、この時のものだった(「走れ25万キロ」より)。

「何事も初めはつらい。自信もなかろう。しかし苦労覚悟で出かけていくことこそ、人間として誇りがあるのではなかろうか。スポーツにしてもしかり、捨て石となり、いしずえとなるのは苦しいことだ。敗れた時の気持ちはわかる。だが、その任を果たさなければ、日本は永久に欧米諸国と肩を並べることが出来ないのだ。このオリンピックを見逃したら、次の機会は4年後にしかやってこない。もう4年の空白を指をくわえて待つ時期ではないのだ。金栗君、日本のスポーツ界のために『黎明の鐘』となれ!」

オリンピックに初出場

明治45年(1912)のストックホルムオリンピックでは、金栗はレース途中で日射病により意識を失って倒れ、近くの農家で介抱される。金栗が目を覚ましたのは既に競技が終わった翌日の朝であった。このため金栗はレースを諦めざるを得ず、そのまま帰国した。

金栗が倒れた直接の理由は日射病であるが、それ以外にも以下のような要因があった。

・日本は初参加でありスケジュール調整や選手の体調管理など、選手サポートのノウハウが無かった。
・当時、日本からスウェーデンへは船とシベリア鉄道で20日もかかり、多くの選手は初の海外渡航であるなど負担が大きかった。
・スウェーデンは緯度が高くオリンピック開催期間はほぼ白夜であったため、不慣れな日本人には睡眠に支障があった。
・当時のスウェーデンには米がなく、予算の都合で人数分を持参するのも難しかったなど、食事の面で苦労した。
・マラソンの当日は金栗を迎えに来るはずの車が来ず、競技場まで走らなければいけなかった。また最高気温40℃という記録的な暑さで、参加者68名中およそ半分が途中棄権しレース中に倒れて翌日死亡した選手(ポルトガルのフランシスコ・ラザロなど)まで発生するなど過酷な状況であった。