国民の自由と行動制限のバランス

巨大な国土と人口を持つ中国。彼らの危機管理体制もまた、あらゆる災害に備え強化されている。


危機多発の社会到来と高成長時代における個人の富の増加に対してどのような施策を講じているのか。


重症急性呼吸器症候群(SARS)や四川大震災後の中国の取り組みを、

北京清華大学公共安全研究所所長の顧林生博士に聞いた。

中国の危機管理体制は、過去の社会主義の対応と異なり、重症急性呼吸器症候群(SARS)が国際的な問題となった2003 年から本格的に整備されたと言っていい。

SARS は2002 年11 月に中国広東省で発生し、短期間で世界29 カ国に拡大し、中国本土で感染者5327 人・死者349 人、世界全体では感染者8098 人・死者774 人という人的被害を出し、2003 年7 月に制圧された(WHO 調べ)。流行が世界的に拡大した原因としては、中国の初動の遅れを指摘する声もあり、特に危機管理体制については、それまでの法律では対応に限界が出たこと、地方と中央政府の連携がとれなかったこと、緊急対応マニュアルが整備されていなかったこと、指揮命令に関する権限・責任が明確になっていなかったことなどが、その要因として挙げられている。

北京清華大学公共安全研究所所長の顧林生博士は「中国では、SARS 以前は危機に対して法・制度面のいずれも十分な整備がされていなかった」と指摘する。課題として浮かび上がったのは、体制やマニュアルを整備することに加え、最も根源的な問題として、感染を防ぐために国民行動を制限するための法律を整備する必要があるということだった。しかし、80 年代以前のような国民がほぼ無産階級であった時代と比べて、経済が急速に成長し、個人の私有財産が膨らんだり、個人権利が強調されつつあった当時、個人の自由と財産をSARS のような国家危機の時に制限することは容易ではなかったと顧博士は語る。その制限を行うにあたって、厳しすぎるなら国民の自由を不当に束縛することになるし、緩くすると、膨大な人口を抱えるだけに効果が薄くなるジレンマを中国は抱えている。

実際、いくつかの極端な問題も発生したという。北京から地方の故郷に帰ろうとした住民が、地元政府に故郷の駅で止められて、上京する列車の切符を渡され北京に戻らざるを得なくなった。また、既に北京から町に入った人が市内のホテルで強制的に1週間拘束・隔離させたというケースもあった。当時の中央政府では、感染者と感染の疑いがある人を7~ 10 日間隔離するという対策を決めていたが、感
染地域では、10 日を超えて隔離する措置をとった地方もあった。

■国民利益と共同利益のバランス
中国は今、危機多発の社会到来と高成長時代における個人の富の増加に対して、国民個人の利益・権利と、社会の共同利益・権益のバランスをとること、個人の自由行動への制限と行政権限の制限のバランスをとること、つまり、いかに危機対応にあたって民主と人権を守るかが重要な課題になっていると顧博士は説く。

SARS 以前も中国では、伝染病防止法などの法律の中に、国民に対して行動の自粛を求める記述もあったが、SARS ほど毒性の強い感染症は想定しておらず、行政側に国民行動を制限するだけの権限は与えられていなかった。

中国には、『伝染病防災法』、『地震防災法』、『洪水防止法』、『黄砂防止法』、『戒厳法』など部門別の法律が35 本あり、行政条例が36 件、省庁の通達が55 件、このほか共産党・国務院および省庁の公文書が111 件あり、災害時に国民の行動を一部制限することが決められている。

しかし、巨大な災害やSARS のように広範囲にわたる危機が発生したときには、部門間、中央と地方、地方と地方、さらには政府と民間の間で調整と協力がなかなかとれず、法的な対応としてではなく、政治的な動員に頼らざるをえなかった。このような、深刻な大災害や国家危機に対して、異なる組織をいかに統合して最大の効果を発揮させ被害を最小限度に抑えるかが、中国政府にとってもう1つの課題となっていた。

そこで中国では、国家危機に対処するための「緊急事態法」を整備することを検討。2003 年10 月の中国共産党第16 期中央全体会議では、このような危機発生時には国民行動を制限したり、全ての危機に対応できるような憲法改正論までが提出されてきた。2004 年3 月の第10 回全国人民代表大会第2次会議では、戦争、動乱、暴動に限定した「戒厳」をSARS や大規模災害などの危機まで拡大して「緊急事態」に改正した。それにより、憲法上は、欧米諸国と同じように、「緊急事態」にはあらゆる危機に対応できるような根拠が与えられている。

これを受け、2003 年11 月から緊急事態法の研究が本格化。顧博士が所属する清華大学公共管理学院に法律の素案づくりが委託された。法学部ではなく、公共管理(パブリックマネジメント)を専門とする公共管理学院に法律の素案づくりが任されるケースは初めてで、それだけ国民行動の制限と人権を守る国際条約を履行することを両立させることが難しい問題であることを示している。それと同時に、危機管理には、法的な厳しい制限だけでは十分でなく、社会のマネジメントから取り組むことも重視されたという。

顧博士らは、日本をはじめ、アメリカ、イギリス、フランス、オーストラリア、カナダ、ロシア、ドイツなど世界の緊急事態法に関するさまざまな資料を調査。日本では、まだ国民保護法が施行されておらず、情報は乏しかったが、日本学術会議より提供された2003 年に始まった有事法制の資料や有識者の意見を参考にしたとする。

■緊急事態法は毒薬
しかし、最終的に中国では、この緊急事態法は採用しなかった。顧博士は「緊急事態法は国民の自由の権利を拘束するため、有事には憲法を停止してこの法律を適用して対応にあたることになる。しかし、憲法を停止する場合、国の体制がかなりしっかりしていないと、軍事クーデター、地域独立、民族独立などの逆効果を招く毒薬になる」とその理由を説明する。

その代わりとして、中国では、緊急事態にならないように、つまり、国のシステムがパニックに陥る前に回避するための「突発性事件対応法」を整備することになった。

突発事件対応法の特徴は、まず、今までの各災害関連法の足りなかった部分を補うということ。例えば、組織の指揮命令体制やそれぞれの役割などは、それまでの法令の中では細かく触れられていなかったため改めて規定した。そして、災害の規模ごとにレベル分けを実施。米国の連邦緊急事態管理庁(FEMA)に倣って1級~4級まで4段階で、それぞれの警報と対応のあり方をマニュアルにまとめた。

さらに、地方から中央まで迅速に情報が収集できる体制を整えるとともに、現地・現場を中心とする仕組みを構築。SARS では、中央政府と、軍隊、地元自治体の3つの組織が、情報を共有することができなかったことが課題となったが、すべての機関が現地で情報を共有して対応に当たれるよう責任と権限を明確にした。

■四川大震災での対応


これらの枠組みが実際に試されることになったのが2008 年5 月12 日に発生した四川大地震(文川大地震)だ。 

災害レベルは最高レベルに位置づけられ、地震発生後直ちに政府機関である国務院にすべての情報が集められた。政府には、災害対策本部となる「文川地震抗震救災総指揮部」が立ち上がり、全中央省庁が参加した。

温家宝首相は地震発生後2 時間足らずで北京から現地に向けて出発し、夜9時には現地に到着し第1回目の災害対策本部会議を開催している。「初動としては早かったと言える」と顧博士はその対応を評価する。

■地震防災基本法を見直し
しかしながら、四川大震災は約9万人もの死者・行方不明者を出した。犠牲の多くは、建物の倒壊によるもので、耐震基準の甘さや、手抜き工事が指摘された。初動としての危機対応こそ早かったものの、災害の影響を最小に食い止める「防災」「減災」への取り組みが足りないことが浮き彫りになった。

中国では四川大地震の反省を踏まえ、地震防災法(中国語で「防震減災法」という)の見直しを実施。2008 年の12 月には修正案をつくり、09 年5月から施行した。

その特徴は、まず、地震防災計画をしっかりつくること。中央から地方まですべてに計画の策定を義務付けた。2つ目の特徴は耐震の強化。特に、学校、病院、集会所のような特定の公共場所に関しては、耐震レベルを一般建築物より1レベルあげることを決めた。

3つ目は、建物に関する全工程監理の徹底。設計段階、施工中、引き渡しに至るまでしっかりと監理をすることを義務付けた。また何か問題が発覚した際に責任が明確になるよう追跡制度を設けた。4つ目は地震観測と予測の強化。これについては、日本の緊急地震速報なども参考に、研究を進めていくとしている。

■危機管理の変化
SARS、四川大地震という2つの巨大災害により、中国の危機管理はどう変わったのか。顧博士は、いくつかのポイントを説明する。

1つは、さまざまな危機に対応できる組織が整備されたことだ。中央政府と地方自治体には突発事件公共応急管理委員会が設置された。同委員会には、政府レベルでは軍隊、警察、省庁の各部門すべてが入る。地方でもさまざまな関係機関が入っている。

2つ目は、法律の整備。突発性事件対応法の創設に加え、地震防災法、消防法、伝染病防止法などいくつかの法律が改正された。

3つ目は、計画の策定だ。中国経済5カ年計画に対応して、政府、地方ではそれぞれ5カ年の危機管理計画をつくっている。ちなみに、今年からは、2期目となる計画がスタートする。

4つ目はマニュアルづくり。政府レベルでは、各中央省庁にまたがる危機管理の共通マニュアルが整備された。危機の種類ごと、例えば地震、食品安全、大規模事故…といった具合に20 本のマニュアルが策定されているという。さらに、各省庁レベルでは、それぞれが管轄する危機対応マニュアルが計85 本ある。中には、大学受験の危機管理マニュアルというものも含まれている。中国は日本のセンター試験のように6月に全国一斉に入試試験を行うが、試験の問題漏れや、災害で一部地域で試験の実施が遅れた場合の対応、あるいは、試験の問題集が途中で紛失してしまった場合の対応などが決められている。

5つ目は情報伝達の仕組みが整備されたこと。中央政府、地方自治体には、それぞれ突発事件公共応急管理委員会の下に「応急センター」が設置され、それぞれ情報収集・伝達の役割を担っている。

そして6つ目は、地震や感染症など災害に応じた救援隊が創設されたこと。軍、武装警察、消防などで組織されている。このほかボランティアの誕生も大きな変化と顧博士は語る。

■今後の課題
今後の課題として顧博士は、「一番大きな課題は、ものづくりをしっかりすること」と強調する。最低限、守らなければならないのが安全基準の達成。しかし、貧富の格差、教育・情報の格差が大きい中国では、それすら簡単に解決できることではない。

建設工事に携わる人は出稼ぎ農民が多く、技術力があまりない。行政が大型工事を何社にも分割して発注する委託方法も責任の所在を分かりにくくしていると顧博士は指摘する。さらには、賄賂や手抜き工事といった問題もある。

「せめて法的基準がしっかり守られていたら、それほど大きな問題が起きることは考えにくいが、それすら守られていないケースがあるのが実情」(顧博士)。

一方、行政には、日常的に危機管理のレベルが落ちないようなマネジメント能力の強化が求められるとする。ある災害や事故の時だけ危機意識が高まり、その後は薄れていくというのは日本と同じ課題と言える。

最後の課題として顧博士は、国民の安全意識、防災意識の向上を挙げる。四川大地震後、中国が特に力を入れているのがこれだ。

■被災地全体をメモリアルパークに
東日本大震災では、被災地の一部をメモリアルパークとして保全・整備することが検討されているが、中国では、四川大地震で被災した都江堰市や北川県、漢旺鎮などの街並みが、すべてそのままの状態で保存されている。何も手をつけないで放置しているわけではない。倒れかかったビルなどをその状態で耐震補強し、地震の恐ろしさを後世に伝える防災博物館としているのだ。

■都市の近くに新しい街を開発


日本との大きな違いを認識させられるのが被災地の復興だ。四川大地震後の中国の復興の1 つのやり方として、中国では、被災地での復興を進めるのではなく、別の場所にまったく新しい街を開発し、住民をそっくり移転する計画を進めている。代表的な町は北川である。

新北川という新たな町は、比較的に大きな経済力を持った都市である綿陽市の近くにつくることで、住民の働き場を確保したり、また都市の工場を誘致するなど、経済力が輸血される仕組みになっている。

このような開発が可能な理由は、土地の広大さに加え、土地利用制度にある。中国では、企業や個人が土地を所有することはなく、土地の所有権は基本的に国家が持つ。企業や個人は期限つきの土地の使用権だけを有している。そのため、土地の買い上げなどは行わず、新たに開発する街で被災地住民の使用権が確保できればいい。

新しい街は、設計から建設までがすべて政府指導で行われる。被災地ごとに、そこを支援する地方政府が定められており、実質的には地方政府が復興支援から新たな街開発までを一貫して行うという流れになっているという。街並みは、建物の高さからデザインまで、きれいに統一されている。

四川大地震後の復興をそのまま参考にすることは現実的ではないかもしれないが、街の魅力や資産価値を高めるという視点は日本でも取り入れていってもいいのではなかろうか。