ストックホルム・オリンピック大会(筑波大学附属図書館資料)

五輪参加へ、大日本体育協会設立

早速クーベルタンは明治42年(1909)5月、ベルリンで開かれたIOC総会で、嘉納を東洋初のIOC委員として推薦し、翌43年(1910)にはIOC委員会と開催地スウェーデンの双方から、第5回ストックホルム・オリンピック大会参加の勧誘が来た。

IOC委員としての嘉納は参加を決意したが、日本選手選出母体をどうするかで苦心した。文部省に掛け合ったが応じられぬと回答を受け、私立日本体育会にも相談したが拒否された。そこで新団体設立を企画し、明治44年(1911)7月6日、学士会館において「大日本体育協会」という日本初の体育団体の設立が決議され、初代会長に嘉納が就いた。名称は、「体育」協会であり、スポーツ協会とはしなかった。そこには嘉納の体育思想がうかがわれる。後に体育協会内では体育が目的ではなく競技が目的であるから、体育協会の名称を改めて競技連合とすべきという議論も起こった。こうした改革案に対して、嘉納は断固反対し、「自分が体協を組織したのは、どこまでも国民体育を目的としたものである。今、諸君が競技連合に改めたいというならよろしい。自分は別に体育協会を組織する」と述べ、競技連合に改称する案は一喝されたのである。

第5回オリンピック大会の選手予選会は、羽田の陸上競技場で開催された。予選会の陣容は以下の通りであった。
 会長 嘉納治五郎
 総務理事 大森兵蔵、永井道明、安部磯雄

予選後、明治45年(1912)2月15日に大日本体育協会は三島弥彦(短距離、元警視総監三島通庸3男)、金栗四三(マラソン)の2人を決定し発表した。選手が決定すると、在日スウェーデン代理公使サーリンは三島、金栗の両選手を築地の精養軒に招待し、午餐会を催してくれ、国際大会における注意事項も教えてくれた。

いよいよ、大正元年(1912)の第5回ストックホルム・オリンピック大会に初参加することになり、開会式では金栗がNipponのプラカードを、三島が日章旗を持ち、嘉納IOC委員、大島監督、スウェーデン公使2人の計6人だけの行進だったが、日本初の参加ということで会場割れんばかりの拍手が起こったという。参加選手の記録は、三島(東京帝国大学学生)は100m、200mともに予選で失格、400mは予選2着で通過したが、準決勝は棄権した。マラソンの金栗(東京高等師範学校生徒)は日本の予選大会では世界記録を破る好成績を出していたが、石畳が多く照りつける暑さの為に26.7kmでついに棄権した。競技後に嘉納は、「お前たち2人が両種目とも敗れたからといって、日本人の体力が弱いわけではない。将来がまだある故、しっかりやれ」と言って元気づけ、これからの日本人の奮闘に期待したのであった。