東洋一の鉱山の「光と影」

「岩手県の百年」(山川出版社)などにより同鉱山の「光と影」を改めて検証してみたい。

松尾鉱山では、大正4年(1915)に飯場制度の中間搾取や制裁の過酷さに抗議する工夫のストライキが発生した。会社はその仲裁者として、労働者を直接雇用に切り替えるなどの収拾策を取った。一方、鉱毒水に対する流域農民の抗議(農業用水が確保できない!)と抵抗は昭和初期から続けられた。だが問題解決は戦後に持ち越された。

同鉱山は、昭和16年(1941)の重要鉱山指定と住友鉱業との提携で生産倍増、機械化推進、八戸専用ふ頭の設置と拡充と、政府補助金や価格調整補給金つきの「華々しい」発展期を迎える。しかし赤川・北上川鉱毒水汚染によるたびかさなる農民の補償要求運動をはじめ、昭和14年(1939)に突発した241人生き埋めの大落盤事故、さらには朝鮮人労働者や転廃業者の報告隊受け入れによる労働力補充などの「影」を背負う時期もあった。

松尾鉱山は、戦時下米軍機の空襲の打撃もあって、敗戦直後の生産は戦前の最高に比べて硫黄・硫化鉱とも1割以下に落ち込んだ。政府主導の補給金支給による生産奨励が再開されると、同鉱山は昭和22年(1947)には敗戦時の4倍近い24万トン余り、昭和25年(1952)には54万トンと、ほぼ戦前の水準を回復した。一時は日本の硫黄生産量の30%、黄鉄鋼の15%を占め、東洋一の産出量を誇った。鉱山労働者への福利厚生施設も充実していく。敗戦後間もない時期に、上下水道、ガス、暖房器具、水洗トイレ、セントラルヒーティングを完備した4階建て鉄筋コンクリート造住宅をはじめ集合住宅群さらには小・中学校・夜学高校、病院、映画館など、当時の最先端の施設が備わっていた。しかし「楽園」は続かなかった。

同鉱山の硫化鉱は昭和31年(1956)の6万5000トンをピークに減少傾向に転じ、1860年代からの公害規制に伴う重油脱硫により安い回収硫黄が市場に出回るようになって経営が悪化した。会社更生法適用申請、全員解雇、そして昭和47年(1972)にはついに閉山。松尾鉱業(株)も倒産して「義務者不存在鉱山」となった。広大な露天掘りの廃墟・廃坑と鉱毒水問題とが北上川流域住民に負わされた巨大なツケとなった。

松尾鉱業は岩手県の中で最大企業の一つであった。松尾鉱業の功績が大きかったたこともあって、県民は鉱山に反発心を抱かない傾向にあったという。東洋一の硫黄鉱山が岩手県にあるという誇りがあった(昭和51年・1976年になって元松尾鉱山の珪肺患者の遺族の訴えがやっと認められて労災補償を獲得している)。