日本一の硫黄鉱山の巨大なツケ

鉱山事業が行われた流域面積は赤川全体の7%ほどであり、北上川全体から見ると0.1%に過ぎない。それだけの地域から排出された「毒水」が総延長249kmの大河・北上川を無残な川に変えてしまった。

製紙工場から出た廃液による江戸川汚染の漁業被害をめぐって起きた乱闘事件をきっかけに「水質保全法」「工場排水規制法」が施行されたのが昭和33年(1958)である。水質を守るために制定された初の公害対策法であった。

一方、鉱山保全法では、会社は存続している限り鉱害の責任を追及され、自ら鉱害対策を行わなければならない。松尾鉱山もまた死ぬに死にきれないような状態で水処理を続けた。だが、不十分な処理により坑廃水はどんどん川に流れ込み北上川を汚染し続けた。追い詰められた松尾鉱山を視察に来た通産省を中心とする調査委員会が出した考えは、排水路となっている3メートル坑をプラグで塞いでしまうという方法だった。結果は、山中に満タンとなった坑廃水が上部の100m坑口から溢れだした。

この汚染水も結局は赤川にそのまま流されて、下の処理場では川水の一部だけを取って中和する能力しかなく、あとは河道に直接炭酸カルシウム(中和剤)を投げ入れ続けねばならなかった。この「お粗末」な処理方法も、会社更生法で行うことが出来たのは昭和47年(1972)4月の鉱業権放棄までであった。

休廃止鉱山の中でも、松尾鉱山の特異性はその規模の大きさだった。「国の補助金はあくまでも工事を行ったり、施設を建設することに対して出されるもので、水処理のランニングコストまでは含まれていない」との考え方は、通産省にとって最大のネックだった。

廃坑の鉱山跡から流出する大量の強酸性水は、赤川に流出し続け、これを中和するため、赤川に直接、中和剤を投入する暫定中和処理がとられた。しかし北上川汚濁問題は解決を見ず、大きな社会問題となった。
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建設省が川の水質を守るために酸性水の中和処理事業に取り組んだ例は、過去にもあった。群馬県の白根山から流れる川は硫黄分を多く含み、草津温泉の湯はpH2.3の強酸性であった。(pH7が中性)。それが吾妻川に流れ込み、下流の人々の暮らしに与える影響は大きかった。そこで群馬県が建設した草津中和工場と昭和40年(1965)に完成した品木ダムとを建設省が引き取り、工場で中和した水に含まれる沈殿物をダムに沈める、という一連の事業が現在も引き続き行われている。ただし「草津の例は、自然界の営みに原因があるから、流域に住む人々の不利益を考えれば河川管理者(建設省)が乗り出さざるを得なかった。ところが松尾鉱山の場合は、産業活動の結果川が汚染されたものであり、その責任は企業にある。また、それをコントロールして来た通産行政にあるはずだ。会社が倒産して、原因者がいなくなってしまったからといって、汚れた川の後始末だけを建設省で引き受けろというのは筋が違う」との主張が、建設省では松尾鉱山問題が始まる時も、終わる時も常に議論の柱となり続けた。

政府、解決に乗り出す

環境庁が調整役となって北上川水質汚濁対策各省連絡会議(通商産業省、建設省、自治省、環境庁、林野庁から構成された。略称5省庁会議)が発足所したのは昭和46年(1971)11月である。将来の維持管理をどこで引き受けるかという宿題を棚上げしたまま建設が進められた新中和処理施設だったが、完成して試運転も始まり、いよいよ稼働しなければならない時期になっても、まだ引き取り手が決まらなかった

5省庁会議によって対策が検討された結果、昭和51年(1976)多量の鉄を溶存する酸性坑廃水を比較的安価なコストで処理可能な「鉄バクテリア酸化・炭酸カルシウム中和方式」が選定され、同方式による大規模中和処理施設を建設することが決定された。

岩手県は通商産業省の補助を受けて同施設を設計・建設し、その運営管理がJOGMEC(独立行政法人・石油天然ガス・金属鉱物資源機構)の前身の一つである金属鉱業事業団に委託された。

同施設は、昭和57年(1982)4月に本格稼働を開始した。以来、JOGMEC がpH2程度の強酸性で鉄分や砒素を多く含む坑廃水を、昼夜・季節を問わず、毎分約18トンの中和処理を行い、殿物を分離・堆積し、上澄水を赤川に放流している。これと並行して、坑内水や浸透水を減少させるための発生源対策工事が、同時に耐震補強工事が、岩手県により実施された。処理原水の水質が改善してきたことにより年間処理費用の削減が進んでいる。

坑廃水の中和処理とは別に、鉱滓等の堆積物の崩壊・流出防止、坑内や堆積物への雨水の浸透・流入を防ぎ、坑内水や浸透水を減少させることを目的として、発生源対策工事が行われている。岩手県では、昭和47年から露天掘り跡地の覆土植生工事を始め、鉱滓等堆積場の整形被覆植生工事、山腹水路工事などを平成14年度(2002)まで行った。一連の事業展開により、北上川は清流を取り戻し「母なる川」としてよみがえった。