現在も尾を引く問題

彼が構想し、東京市が免許を得た高速鉄道の計画は、太田の死後、昭和2年(1927)の金融恐慌から続く不況のもとで挫折した。わずかに「地下鉄の父」と呼ばれる早川徳次が推進した東京地下鉄道が、同年12月30日浅草~上野間に開業し、昭和9年(1934)新橋まで路線を延長した。今日の東京メトロ銀座線である。しかし、これもその後は東京市の免許線との交錯、さらに大正7年(1918)以来、渋谷~新橋間の地下鉄建設をもくろんで、みずから支配する東京横浜鉄道の都心乗り入れを図る五島慶太(現在の東京急行電鉄の創始者)の東京高速鉄道との対立などが起こった。帝都高速度交通営団(現在の東京メトロ)の設立によって、その悶着は「解決」されることになる。

東京市は、自らが保持する高速鉄道免許路線を楯として、他の鉄道企業が山手線にかこまれた都心部における鉄道の建設計画を阻止する立場をとった。これが「山手線の壁」をつくる最大の原因となった。そのような立場をとりながら、みずからが保持する渋谷~新橋線の免許を東京高速鉄道に譲渡するという措置を取ったのである。

東京における交通機関、とくに高速鉄道の整備は関東大震災の後にようやく計画がまとめられたが、それは1920年代後半の不況に加えて、政治家の思惑や企業の利害に左右され、その成果を挙げることが出来なかった。今日の東京における鉄道網問題は、この時に根本的な解決方策がとられなかったことに根源がある。

付記:太田は、隅田川六大橋(下流から相生橋、永代橋、清洲橋、蔵前橋、駒形橋、言問橋)をはじめとする「震災復興橋梁」の建設を、橋梁課長田中豊と共に主導した。太田の残した後世への大いなる遺産である。

参考文献:「日本の鉄道―技術と人間―」(原田勝正、刀水書房)、伊東市教育委員会資料、筑波大学附属図書館文献。

(つづく)