ヒル・アンド・アソシエイツ・ジャパン株式会社代表取締役社長 石井弘之氏

タイやイランの活動に垣間見る
日本企業の“想定無い”リスクマネジメント(上)

日本企業の海外進出が加速する一方で、タイの大洪水や、北朝鮮の人工衛星打ち上げと称するミサイル発射実験、さらには中東における紛争など、海外での自然災害や人災などのリスクがクローズアップされる機会が増えてきた。日本企業の海外におけるリスクマネジメントは十分なのか、今後いかに備えればいいのか。世界的なリスクコンサルティングサービスを展開するヒル・アンド・アソシエイツ日本法人のヒル・アンド・アソシエイツ・ジャパン株式会社代表取締役社長の石井弘之氏に解説いただいた。

■はじめに
我が国政府の危機管理不在が叫ばれて久しい。東日本大震災と福島第一原発事故への対応はもとより、今後来るべき次の大地震やこれらに対する原子力発電の耐久性と脆弱性の再評価、さらには原子力発電所の再稼働問題等、その取り組みが全てにおいて場当たり的な付け刃としてしか映らないというのが多くの国民の偽らざる実感であろう。つい最近の出来事である北朝鮮による長距離弾道ミサイル発射への政府の対応にしても、その体たらくは目を覆うばかりであった。 

これらの稚拙とも言える国家としての危機対応の有り様を現民主党政権の経験なり能力なりの不足に帰結してしまうことは易しい。しかしながら、真の原因はもっと深いところ、例えば、国土、国民およびその資産を現在そして将来のために脅威から守るという国家としての基本命題に対する国全体の当事者意識(言い換えれば絶対的な責任感とオーナーシップ)の決定的な欠如といったところにあるのではないかと愚考するのである。 

この当事者意識の欠如が、欧米人と日本人の宗教に対する考え方の違いに起因するものなかのか、あるいは、日米安全保障体制のもとで、経済成長のみに邁進してきた皮肉な結果としての国家防衛観の空白から派生するものなのかはわからない。ただ、現在の安全そして安定した環境を所与の要件として、これをあたりまえのように享受するばかりで、可能性の限界まで先々のリスクを予見しながら備えることを怠れば、手痛いしっぺ返しが待っているというのは敢えて言及するまでもないところであろう。想「定外」ではなくて「想定無い」というのが、危機に適正に対応しきれなかった本当の原因なのではないだろうか。 

産業界に目を向けてみれば、いわゆる六重苦にあえぐ製造業を主体として海外への進出が加速している。より成長性の高い海外市場、特に新興国市場への進出は、多くの場合、企業があまりよく知らないところで事業を行うことを意味する。そして、知らないことが多いということは、それだけ潜在するリスクが大きいということになるが、果たして日本企業は「想定無い」ではなく、予見可能性の限界までリスクを予見想定し、これに備えることにより、海外投資からのリターンを確実なものとするような取り組みを実践しているのだろうか。以下、筆者の限られた経験から昨今の企業の海外事業展開における課題を仮定し、その改善策について述べてみたい。

■タイでの不注意:洪水後のリスクは多種多様
筆者が企業危機管理あるいはリスク・コンサルティングという仕事に携わり、日本企業の海外事業運営におけるリスク管理の実態の一部に触れた中で、えっ?」「と感じた事例を以下いくつか紹介する。(1)プロセスを省略して解答だけ手に入れたい 昨年発生したタイの大洪水に、ある程度の収拾の見込みがついた頃、ある日本企業から次のような要請を受けた。 

「洪水被害にあった現地工業団地で操業する顧客事業所の第一次復旧支援のために日本から応援要員を派遣する。ついては、必要な保護具や携行すべき装備についての情報が欲しい」。 そこで私は次のような回答をした。 

「水がまだ引いていないし、その水面下の地面には何が落ちているかわからないから、丈夫な底の長靴(安全靴)、耐水保護ズボン、コーティングされた手袋やヘルメットは、まずもって必要だろうし、滞留しているのは汚水で感染症の危険もあるから保護メガネやマスクも携行すべきだろう。洗浄用の殺菌剤や薬用石鹸もあった方が良いだろうし、さらには常夏のタイで重着装による作業をすれば熱中症のリスクもあるからその対策も必要だ」。 

このような回答をしつつ、ただし、これらの備えは、新聞報道等からの限られた情報に基づく、あくまでも一般論としての回答であり、そこに予見や想定といった要素はほとんど含まれていないので、バンコクにある弊社の現地法人からセキュリティ専門家を現地工業団地に派遣のうえ、セキュリティ・サイト・サーベイ(現地状況評価)を行い、その結果に基づく最善の装備と行動基準をもって派遣したほうが良いとお勧めした。ところが、一般論としての準備が分かれば結構、ということで本件は落着となった。その後、特段の連絡もなかったから結果オーライであったのだろうが、この結果オーライが問題なのである。 

そもそも、洪水によって生ずるリスクの属性は多種多様である。それこそ、外傷リスクから感染症リスクまで想定できるわけだが、それが脅威となって顕在化するパターンは個々の要件下で全て個別である。例えば、外傷リスクの類型は、その工業団地で操業していた周辺の各事業所が扱っている原料、材料、設備、器材等々によって固有のものがあるだろうし、毒物劇物を取り扱う工場が所在しているかもしれない。また、再び豪雨に襲われた際にどのような新たなる脅威が発生するかもわかっていない。 

本来であれば(1)現地の事実を情報として可能な限り収集し、(2)これを解析評価のうえ知見化してリスク想定を行い、(3)そのリスク想定に基づく万全の備え(保護具、行動基準の設定と徹底、緊急対応マニュアルの設定と徹底等)を手配する といったプロセスがとられるべきである。しかしながら、リスク管理として最も重要な「情報収集⇒解析評価⇒リスクシナリオ想定⇒対応策の策定」というプロセスが無視され最終的な対応手段のみが求められたというのが現実である。残念ながら正しいプロセスを経ない限り有効な手段の入手を期待することはできない。

■アフガニスタンでの不注意:誘拐に備え財源だけを準備
(2) 誤った想定が誤った優先順位につながる 
こんな事例もあった。あるエンジニアリング・コンサルタントが業務のためアフガニスタンに長期出張で滞在することとなり、助言を求めてきた。戦時下と言っていい最悪の治安状況下の国である。セキュリティ上の備えはもちろん、病気やけがの際の緊急医療体制等についても提言したが、加えて、頻発する身代金目的の誘拐についての対策も提案した。アフガニスタンにおいて誘拐は政治的かつ経済的な背景から発生リスクが高く、タリバンが資金獲得の目的から背後で誘拐を主導しているとの観測もある。そこで、万が一、身代金目的の誘拐が発生した際、犯人側との交渉人を派遣し、犯人との交渉のマネージメントを行うとともに事業主や関係者のケアも同時に行い、最低条件による無事解放を目指すというコンサルティング・サービスを提案したわけである。同国における外国人の誘拐事件において、欧米人は概ね無事に解放されるものの、インド人、パキスタン人並びに中国人等は殺害される場合が非常に多い。もちろん、身代金の支払い能力が主たる理由であろうが、コンサルタントの有無や質もおそらく影響していると考えられる。 

ところが、先方が懸念するのは身代金の財源ばかりで、コンサルタントの必要性、その質や経験の重要性は二の次である。仕方がないので、交渉サービス付帯の保険商品があるからと紹介し、ただし、コンサルタントの質は保証の限りでないと説明のうえ、本件については打ち切った。 

本件の問題は、身代金を払いさえすれば人質の無事解放を想定しているということである。いくら保険に加入したところで保険金は青天井で支払われるわけではないだろうし、もし、保険に付帯して提供される交渉人の質が悪ければ解決が長期化し人質の状態は悪化するであろうし、身代金が釣りあげられ、結果として持ち出しも多くなろう。理想的には、誘拐による財務的リスクは保険に転嫁するにしても、誘拐という事件解決のための最も大切なリソースである交渉コンサルティングは、保険とは別のリソースとの理解に立って厳正評価のうえ指定されるべきであろう。想定が誤っているがゆえに、対応すべき脅威への優先順位を誤ってしまう事例である。

■中国での不注意:偽造品・模造品は見ぬふり
(3) 脅威がもたらす損害を経済的な尺度からでしか想定しない
さらに知的財産リスクに対する日本企業のスタンスを表す事例としてこのようなものがある。 

家電関係の中国現地法人を訪れて、同地の偽造品・模倣品流通リスクへの対応について話し合っていた時のことである。ご承知のとおり中国は偽造品・模倣品の製造・流通大国であり、大規模なシンジケートがこの「ビジネス」を牛耳っている。流通は国内に留まらずインドや中東方面へまで輸出を通じて拡大している。特に、食料、飲料や医薬品の偽造品・模倣品は人民の健康や生命に大いなる脅威になるとして中国政府もその取締りを強化しているが、始末が悪いのは、地方政府にとっては、偽造品・模倣品企業といえども貴重な税収源かつ雇用源であることから地方政府がこれらの違法企業を暗黙のうちに保護する政策をとる傾向があるということである。 

それはさておき、この会社担当者は、同社の偽造品・模倣品は中国において結構な規模で流通していると思うが、特段の防衛策をとっていないと言う。理由を尋ねると、それら偽造品・模倣品の流通が同社の売上に対して、どれほどの損害をもたらしているのか定量的に把握できていない(していない)ので、手を打つ動機付けがないとのことであった。言葉は悪いが、見て見ぬふりというところであろう。 

後日、領事館の経済担当領事にこの話をすると、経済的な損害を特定し得ないからという理由で偽造品・模倣品対策をとらない日本企業は決して少なくないとのことであった。経済的な損害が大した規模で無いとすれば、敢えて大きな費用をかけて偽造品・模倣品の駆逐をする合理性がないというコスト・ベネフィット分析的な考え方なのであろうが、本来、偽造品模倣品流通のはらむリスクは、・それらによって正規品のブランドなりその企業のインテグリティ(完全な状態)なりといった無形の財産に損害が及ぶというところにその本質がある。粗悪な偽造品・模倣品が流通して、例えば、事故などが起こった場合、手をこまねいていた正規品メーカーのインテグリティが被る損害は甚大であると思うが…。

■イランでの不注意:パブリック・ソースでの情報収集だけで満足してしまう。
イランの核兵器開発疑惑に端を発したイラン産原油の禁輸措置、そしてそれへの対抗手段としてイランが宣言したホルムズ海峡封鎖戦術さらにはイスラエルによる核開発施設の空爆の可能性等についても、それらの脅威が自らの事業や資産に及ぼし得る損害に関して、広範かつ深淵に情報を収集のうえ、これらを解析してリスクシナリオを策定し、リスクの現実化とともに採るべきアクションを具体化するといった取り組みを実行している企業は筆者の知る限り決して多いとは言えない。多くの企業のリスク管理担当者が報道等のいわゆるパブリック・ソースを通じて大変豊富な情報を有しているのは確かである。しかしながら、いくら情報を収集しても情報はあくまで情報であって、要は「知っているか知らないか」といった次元の所産でしかない。知っているだけでは実務的に何の役にも立たないのである。 

脅威が同質であっても、それが事業や資産にもたらす損害・損失の形は業種業態、操業地域、その他もろもろの特性によって全く異質となり得る。つまり、ある企業にとっては、大した脅威にならないリスクが別の企業にとっては大きな脅威となるということである。よって、入手した情報をプロセス・解析してこれを組織独自の知見、即ちインテリジェンスに進化させ、このインテリジェンスに基づく具体的で固有のリスクシナリオを策定するという作業が重要となる。このリスクシナリオを欠いて有事の際に有効な対応を実現することは難しい。 

このイラン問題について、筆者はある大企業のリスク担当部門から見解の提供を求められた。インテリジェンス・レポートとして提出したが、そこにはイスラエルによるイランの核開発施設の空爆の可能性と効果、想定される空爆時期、イランの反撃能力と反撃の標的そして周辺諸国に及ぶ影響等を想定として示しておいた。この企業は、これをさらに自社組織内でプロセスして具体的かつ固有のリスクシナリオを策定し、有事対応計画を立案するとのことであったが、情報のインテリジェンス化プロセスに外部の専門家をビルトインする実効的な取り組みであると思う。一方で、このような情報収集、専門家も巻き込んだ解析・評価プロセスを経ての情報のインテリジェンス化、インテリジェンスに基づいたリスクシナリオの想定と危機対応計画の策定といった基本的な作業を的確に実践している企業は必ずしも大多数ではないというのも厳然たる現実のようである。(続く)

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