東京・港区の旧薩摩藩邸跡にある勝海舟と西郷隆盛の会談を示す碑(出典:photo AC)

両雄、勝と西郷

幕末・危機一髪のクライマックス、江戸無血開城と幕臣・勝海舟の危機回避への深謀遠慮を考える。「海舟は幕府体制の中にいながら、体制をぶち壊し体制の枠を超えてずっと先を見通している」(「それからの海舟」半藤一利)。最後の将軍徳川慶喜から危険視されていた勝海舟が陸軍総裁に任命されるのが慶応4年(1868年)1月23日(旧暦)である。

慶喜の最終的決意が完全に固まってはいない時期だったにせよ、事態を破局に陥らせないための人事だった。その後、慶喜が短期間に絶対恭順を厳守することにより、勝は旧幕府全体を総括することになる。<勝は開国主義者だ>と暗殺まで考えていた幕府内の勤皇攘夷主義者たちも、徳川家存続ということでは勝と目的を同一とする。2月12日、慶喜が上野・寛永寺に身を引き謹慎に入る。

勝は幕府軍を鎮静化させ暴発させないため奔走し、江戸を離れることはできなかった。他方、新政府軍(西軍)は東海・東山・北陸の三道から江戸総攻撃に向けて日夜進軍を続けていた。事態は緊迫の度を高める。3月5日、幕府・精鋭隊隊長の山岡鉄舟は勝邸を訪ねて、自ら駿府(現静岡市)に赴き新政府軍との折衝の糸口を創り出そうと申し出る。勝も東征軍参謀に西郷隆盛がいることをつかんでおり接触を考えていた。

勝は、前年12月25日、薩摩藩邸焼き討ち事件で捕縛・投獄された薩摩藩士・益満休之助(ますみつ・きゅうのすけ)を自宅に預かっていた。山岡は益満とは熟知の間柄であり、山岡は益満を勝から借り受け翌6日江戸を出立した。山岡は益満を「通行手形」として新政府軍の支配が進む東海道を西行し、9日駿府に入り東征軍参謀西郷隆盛に勝の書状を渡す。

書状は訴える。「恭順を堅持して府下(江戸)を鎮撫することが極めて困難な状況にあり、一旦暴発したら静寛院宮(皇女和宮、第14代将軍家茂に降嫁)の身辺も保障の限りではない」。しかも旧幕府の統括最高責任者・慶喜は絶対恭順であるとした上で、西郷への交渉を望んできた。交渉相手(勝)は西郷の信頼している旧知の人物である。西郷は大総督の意見を糺(ただ)したうえで作成した謝罪条目7カ条を山岡に示した。山岡は、慶喜備前藩御預けの条に関しては家臣としてのむことはできぬと強硬に抗議し、修正を西郷が請け合い、山岡はただちに江戸に帰って勝に結果を報じた。

江戸城総攻撃のタイムリミット3月15日が目前に迫った3月13日、西郷は高輪薩摩屋敷に入り、勝が同所に赴いて会談に入った。会談は1日では決着せず翌14日も継続した。西郷側の条件に勝は次のごとく修正を要求する。

一、 慶喜は備前藩御預けではなく、実家の水戸に赴き同所で謹慎とする。
二、 江戸城を新政府軍に明け渡すが、その後は田安慶頼(徳川御三卿の一つ)に御預けと、預け先を特定する。
三、 軍艦、兵器は残らず取りまとめ、追って相当の員数を留置した上で新政府軍に引き渡す。
(以下略)

西郷は勝の修正の趣旨を受け入れることを約した。