セーフティ・コミュニティを進める中で、人命に大切なのは発災後72時間であるということや、普段付き合いや顔見知りの関係を作っておくことで迅速な避難ができることを学んだ(出典:wikipedia)

前回(杉戸町の人々の第二の故郷だった富岡町 数日で終わるはずだった合同対策本部 http://www.risktaisaku.com/articles/-/2688)からの続き

(前回までのあらすじ)
海山一帯の生活圏であった富岡町と川内村。杉戸町のスポーツ団体が富岡町を利用していたことから友好都市提携をするまでに至ったが、それは実に東日本大震災発災のわずか半年前の出来事だった。発災後、1F(東京電力福島第一原発)から10km圏内までの避難命令により富岡町民は全町避難を余儀なくされた。それを受け入れたのが隣接する川内村だった。

7.救援、炊き出し

東日本大震災発災時、関東地方にある私たちの杉戸町も揺れました。地面は生き物のように波打ち、これは本当に現実なのかと見紛う(みまがう)ほどの光景であったことは皆さんの記憶にもある通りです。幸い、杉戸町周辺では大きな被害はなく、住民は一応に胸をなでおろしましたが、テレビから流れる津波が街を、車を、飲み込んでいく姿には胸が引き裂かれる思いでした。

そんな私たちの耳に飛び込んできたのは「友好都市である富岡町民の被害状況は一切不明。しかし全町避難を余儀なくされているらしい」そんなニュースでした。それを聞いた時私たちは「72時間が勝負だ!」そう直感し、仲間を助けに行くための準備を急ぎました。そう発想し、動いたのにはかつて私たちが中越地震から学んだ経験があったからです。

私たち、すぎとSOHOクラブは2009年から行われた文部科学省委託事業「学び合い支えあい地域活性化推進事業(実施主体:NPO法人地域交流センター)」に参画し、川つながりのまちづくり「川まちづくり」を推進してきました。かつて水運が盛んだった頃、川は人や物が行き交う地域の大動脈であり、「川=地域を貫きつなげる存在」でした。

しかし、陸上輸送が盛んになると、川の存在はいつしか忘れられ、「川=地域を隔てる邪魔な存在」とさえ思われるようになってしまいました。しかし今も川はそこにあり、地域を貫きつなぐ存在であることに変わりはありません。いま再び川の価値を見直し、同じ流域に暮らす者同士がつながり、流域交流を盛んにしようというのがこの事業のきっかけでした。

その拠点となるのは地域の「川の駅」。川の駅は、かつて道の駅を提唱したメンバーが道の駅・まちの駅に続く、第三のネットワーク構想として提唱した考え方です。はじめは幹線道路沿いのゴミ問題解消のために拠点を作ろうと発想され、人や物や情報や想いが集まる場所を「道の駅」と名付けました。この発想は国土交通省事業として採択され、国道沿いに道の駅を設け、全国津々浦々で盛んなことはご存知通りです。

第二のネットワーク構想「まちの駅」は、省庁事業に頼らず、地域の人々が自ら名乗りネットワークできるものとして発想されました。駅は様々なものが集う場所です。まちの駅は、休憩機能(誰でもトイレが利用でき、無料で休憩できる)、案内機能(「まちの案内人」が、地域の情報について丁寧に教える)、交流機能(地域の人と来訪者の、出会いと交流のサポートをする)、連携機能(まちの駅間でネットワーク化し、もてなしの地域づくりをめざす)を有した条件を満たした場合に名乗ることができるとされました。結果、全国で1439カ所(2008年8月現在)ものまちの駅が誕生しました(詳しくは、全国まちの駅連絡協議会ホームページhttp://www.machinoeki.com/をご参照ください)。

そして、流域をつなげる第三のネットワークとして「川の駅」が構想されました。当時は、東京湾に注ぐ江戸川から利根川、日本海側の魚野川へと流域ネットワークがつながり、川の駅候補地が選定されていきました。しかし、実際には「○○の駅」と名付けるブームが起きて、全国に様々な「駅」が乱立してしまい、川の駅構想は大きなネットワークを築くまでには至りませんでしたが…。

しかし「川の駅」事業の中ではさまざまな流域交流を行いました。関東地方の北部の山間から東京湾へと注ぐ、利根川~江戸川をEボート(ゴム製の10人乗り手こぎボート)で下ったり、流域4か所で流域の人たちが集う交流イベント「カッパ市(交流・健康・環境・教育・子ども・婚活・経済=これらの頭文字(K)が8つ=K8=カッパと名付けた)」を開催したりしました。流域の人たちがつながり合うことで、川上の人は川下の人のことを想い、川下の人も川上の人のことを想う。そんな互いを想い合う顔見知り、普段付き合いの関係が川を通しでできたのです。

そして私たちはこれを「あいきょう(愛郷、愛京、相教、相響、会協、愛嬌)精神」と名付け、流域が連携し、いざという時に助け合う仲間との広域共助(セーフティ・コミュニティ)を提唱しました。

 

写真を拡大 流域が連携し、いざという時に助け合う仲間との広域共助(セーフティ・コミュニティ)を提唱
写真を拡大 互いを想い合う顔見知り、普段付き合いの関係が川を通しでできた

このセイフティ・コミュニティの形として私たちが進めたのが「民間防災協定」でした。その当時は流域交流イベントでの飲みニケーションの中で「私とあなたは困ったら助けに行くからね、よろしく」という覚書を交わす程度のものでした。

しかし、新潟県を流れる魚野川流域の仲間の中には2004年に発災した中越地震を経験し、全村避難から帰村を果たし復興に取り組んでいる山古志村や河口町(いずれも現・長岡市)、地震による堤防決壊で洪水を経験した見附市の人々がおり、発災当時を生き抜いた生々しい体験や経験を実際に聞かせてくれました。私たちは実際に山古志村も訪問して、当時の洪水に飲み込まれた人家をそのまま残した「木篭(こごも)集落」を見学して震災の爪痕を間近に見たり、帰村後の復興に挑む人たちとの交流を行っていました。

彼らとの交流の中で、人命に大切なのは発災後72時間であるということや、普段付き合いや顔見知りの関係を作っておくことで、迅速な避難ができたことを学び、常日頃から備えておくことの重要性を認識していたのです。

そんな中、東日本大震災が発災し私たちはいち早く仲間を助けに行かなければと、動き出したのでした。

(つづく)