松戸市から来てくれた流域交流メンバーにカッパ汁を振る舞う(画像提供:とよしま亮介)

前回(有事の際に助け合う仲間との広域共助 http://www.risktaisaku.com/articles/-/2810)からの続き

(前回までのあらすじ)10年に及ぶ民間交流から友好都市提携を行った埼玉県杉戸町と福島県富岡町。それは東日本大震災のわずか半年前の出来事だった。発災直後から富岡町は全町避難を余儀なくされ、隣接する川内村へと逃れ、合同対策本部が設置された。関東地方の杉戸町も大きく揺れたが被害はほとんどなく、中越地震に学び、川まちづくりや民間防災協定など進めていた私たちは、いち早く仲間を助けに行かなければと動き出した。

第一原発の水素爆発。それでも炊き出しへ

私たちは日頃からの備えとして、地域イベントで炊き出し訓練を繰り返していました。地域で採れた野菜を大きな釜で煮込み、それを「カッパ市」で振る舞っていました。その野菜の煮込みを「カッパ汁」と名付け、私たちの炊き出しの定番となっていました。

発災直後、富岡町民の全町避難の報に接し、私たちがまず考えたのは、この季節の東北地方の気候と避難先の状況です。そこで生きたのは、中越地震を乗り越えてきた皆さんから避難当時の状況を克明にヒアリングした経験でした。発災直後の混乱と避難所での状況は想像に難くないものでした。

3月と言っても、夜はまだまだ寒い。場所によっては雪が降る所もある。避難所に十分な設備があるとは言えず、届くものはまだ少ない。災害用備蓄品があったとしても常温保存のものしかない。そんな時ふと山古志村の方が言っていた「避難しても温かい食べ物がなかった。何日もしてから炊き出しで出してくれた汁物がとっても有り難かった」と言う言葉を思い出しました。「みんなに温かいもの、そうだカッパ汁を届けよう!」そう思い立ち、志のある仲間で「富岡救援隊」を結成しました。

次に考えたのは、どれくらいの量を持っていくべきか?ということ。1万5000人の富岡町民が3000人の川内村へ避難しているということは、1カ所につきかなりの人数が避難していることになります。私たちの巨釜は1釜で500人分のカッパ汁をつくることができる、それを2釜持っていき、1000食分のカッパ汁を提供しよう。直ぐに地域の農家さんに声をかけ、翌3月12日の朝から野菜の調達をはじめました。私たちが交流できる里山として使っているFURUYA村の古谷さん、福祉農場の「致良知」の葛西さんから大量の野菜を提供して頂きました。

農家さんの畑で野菜を調達(画像提供:とよしま亮介)