震災から16日後には周辺の排水も進んでいる(提供:国土交通省)

孤立から全員無事脱出

国土交通省の昼夜を徹した緊急排水によって、孤立した空港ビルから被災4日後には避難者1695人全員が無事脱出することが出来た。(当初1週間はかかると見られた)。その間の状況を、前線指揮をした仙台空港ビル(株)代表取締役伊藤克彦氏(当時)にうかがった。取材メモのまま箇条書きとしたい。

・津波は3mほどの水深、空港ビル1階は完全に浸水した。
・空港内の貨物ターミナルで、津波で流されたハイブリッド車の電池が爆発炎上し、火災が 起きた。500m離れたところにジェット燃料タンクがあったが、地震後、バルブを閉めた。幸いタンクは倒れなかった。延焼することは無かった。
・津波が来襲した時、空港に飛行機が1台も駐機していなかったことも幸いした。通常飛行機は着陸後、燃料を満タンにし1時間後、離陸するパターンが多い。もし津波来襲時に燃料を満タンにした航空機が駐機していたとすると、大きな火災が発生していたかも知れない。この時間帯は飛行機も少なく幸いした。
・津波来襲時、上空に着陸予定の中華航空機(台湾の航空会社)がいたが、管制塔から指示し鹿児島空港に変更し着陸した。
・津波が来る前までは、ビル内の電源は落ちなかった。津波が来てからは、電源施設が1階にあったため空調・通信、それから水も…すべてダメになった。
・結局、ビルは4日間孤立状態だった。だが避難した方1695人は、死者・けが人ゼロで、被災4日目には自力で脱出することができた。お年寄りや病気の方もいた。
・ビルそのものは、地震での被害は多少あったものの、ガラスが割れる等致命傷となる損傷は無かった。ガラスが割れなかったことは、避難中の暖房対策として非常に助かった。老人ホームから100人の高齢者が避難しており、ガラスが割れなかったことは本当に 助かった。
・最初はどこの誰が、何名避難しているか、把握できなかった。まずは「災害対策本部」 を組織し、私が本部長となった。
・航空会社が何とか外部と連絡をとるため、電話を掛けていたことが功を奏したと思うが、偶然か、幸運なことにエア・ドゥ(北海道を拠点とする航空会社)と固定電話がつながったとの情報が入ってきた。その時「NHKに仙台空港で2000人孤立と報道してくれ」と頼んだ。
・3日目に周辺の水が引き始めたが、余震で大津波警報が出ていたため「外に出ないよう」 呼びかけた。その後、徒歩で脱出し始める人が出てきた。
・避難者は、内陸方面に滑走路を歩いて脱出した。4日目には、全員脱出できた。社長で ある自分が最後に出た。
・滑走路面をメンテナンスしていた前田道路(株)が、3000m滑走路のうちの1500mを直ちに清掃・土砂撤去した。前田道路(株)の貢献度は極めて大きい。
・一部、滑走路が使用できるようになり、米軍の「トモダチ作戦」が始まる。精鋭部隊が入り、作業は粗かったがすごい勢いで片付けが進んだ。
・ビルには多くの遺体も収容した。
・空港ビルは16年前に建設されたが、津波を想定していない。3日目くらいにこのビルの設計・施工者である熊谷組などが来た。「復旧は向こう1年はダメでしょうね」と言われた。私は「6カ月でやろう」とあえて言った。かけ声を掛けることが大事で、みんなをその気にさせることが必要である。団結力が生まれた。

震災後わずか1カ月に国内線が復旧し、また半年で国際線の開通により全面復旧にこぎつけた。打ちひしがれた東北に明るいニュースをもたらしたのだった。(参考文献:国交省東北地方整備局配布資料)

(つづく)