現場に権限を持たせる
Q.国との連携はどうだったのでしょう?
秋冨 国の悪かったところは、現場の状況が見えない中で、何をすべきかが分かっていなかったことです。ひたすら現場に情報を上げろと言い続けました。しかし、必要なものを要請しても違うものが送られてきたり、あるいは後回しにされたり…。発災当初、国の地震防災情報システムでは、岩手県は死者が百人未満と算出されました。そのことにより、医療チームなどの支援が岩手はあまり必要がないと判断され支援が遅れたことは、その情報が揺れだけを計算しているという「情報の信頼度」を確認していなかったという情報マネージメントのミスです。そして、現場の状況は現場が一番分かっているという信頼ができていなかったことに大きな問題があったように思います。 

アメリカのICS(標準化された危機対応システム)では、現場に権限を持たせて、国などの上部組織は、現場が動きやすいよう支援するというのが鉄則なのですが、3.11においては国の役割、県の役割、市町村の役割があいまいでした。何が必要かは、現場が一番分かっています。本来、現場に任すべきことは現場に任せて、国がやらなくてはいけないことは何なのかをもっと考える必要があったと思います。

小山 私は、南海トラフなどを考えると、もう少し違った観点も必要だと考えています。南海トラフのような超巨大災害だったら、国は個々の自治体の要望に応じていられるような状態ではなくなります。国全体を動かすような発想がないと収束しないと考えられます。その際、重要になるのが情報共有です。

危機対応の標準化による信頼の構築を
Q.こうした問題を改善するためにはどのような取り組みが必要でしょう?
越野 本来なら、県、国、市町村など、それぞれの立場を理解していないと、連携というのは難しいものです。私は、防衛省(陸上幕僚監部)にもいたし、方面隊や師団レベルも経験しましたから、その意味では自衛隊との連携はうまくできたと考えています。同じような経験をするには、訓練を通じてそれぞれの立場を日常的によく理解しておく以外に解決策はないでしょう。その中で、連携しながら情報の処理、つまり関係機関からのさまざまな情報「インフォメーション」を、各組織にとっての対応に必要な情報「インテリジェンス」に変換していくような能力を高めていくことが求められます。

秋冨 被災者、県、国、市町村すべての方々と相手をしていて分かったことは、被災者は市町村が何もしないと怒っている、市町村は県が何もしないと怒っている、県は国が何もしないと怒っている、ということです。 

しかし、中立的な立場の僕から見れば皆頑張っていたんです。でも、相手が何をしているかが見えない、信頼できないから、お互いを責め立てていた。もし、アメリカのICSのように国全体として災害対応の手法が標準化されていたら「相手は今、こういう対応をしているはずだ」というように信頼関係が築けていたと思うのです。

小山 確かにICSができていれば、それぞれの組織の参謀同士が連携し、どう社会の機能維持をしていくかという流れは揃えられると思います。ただし、県、国、市町村の信頼関係を築きあげていくためには、ICSに基づいてそれぞれの組織が災害対応にあたっていることをお互いが確信できなくてはいけない。そのためには、実際に汗を流して互いに訓練をしてみることが必要です。その汗によって、はじめてICSによる「絆」ができあがると思います。

Q.岩手県では、特に岩手・宮城内陸地震(2008年6月14日)以降、災害対応について見直された点も多いとうかがっております。具体的に改善しておいてよかった点は、どのようなことでしょう。
秋冨 岩手・宮城内陸地震の後は、越野さんが中心となって、まず部局内はもちろん、自衛隊や医療機関が常に連携できるように組織体制を見直し、災害対策本部の配置なども変えました。訓練も、元防災課長だった菊池さんや担当の小原さんがその必要性を感じ、当時は絶対に無理だと言われた県の総合防災訓練を、シナリオを事前に公開しないブラインド型にするなど、それぞれの意思決定力を高めていきました。こうした改善をしていなかったら、3.11の対応はかなりひどいものになっていたと思います。 

もう一つ、震災の1年前には、大災害発生時に花巻空港を閉鎖し、SCU(ステージング・ケア・ユニット:広域搬送拠点臨時医療施設)を設置してヘリで運ばれてきた患者を県内外の医療機関に送る中継地とすることを決めました。また、そこから被災地沿岸部へ医療チームを送るという医療の中間準備派遣基地として、その訓練も行いました。 

最初は県を巻き込んだこの壮大な計画は馬鹿にされて、まともに話すら聞いてもらえませんでしたが、訓練を通じて、空港職員の方々にはその必要性を理解していただき、結果的に今回の3.11でも、地元の医師と消防の方が連携し、早い段階でSCUを立ち上げることに成功しました。SCUでケアした患者は約300人、広域搬送した患者は16人に上ります。いわて花巻空港のSCUからは宮城県や福島県までの支援も行っています。放射能の危険にさらさせてしまった責任は感じるものの、全国の医療従事者が岩手県に集まって頂き、そのおかげで多くの命を救う事ができました。これらが成功したのも事前からの準備と、岩手県内の医療従事者の熱心さ、それを理解してくれた県行政、そして消防、警察、自衛隊、海上保安庁等の各関係機関の取り組みによって、少ない支援の中で支え合って頑張って乗り切れたのだと思っています。

越野 県庁の12階大講堂に陸上自衛隊の第9師団(岩手県への災害派遣部隊)の司令部を設置することを決めたのも岩手・宮城内陸地震の直後のことです。自衛隊の災害派遣部隊の指揮官である師団長と、その幕僚が県庁内にいたことで、行政側のニーズをダイレクトに伝えることができ、災害対応の調整がスムーズに行えました。 

沿岸各市町村に自衛隊の活動拠点を決めて、そこに展開させる訓練を実施していたことも役立ちました。2010年度には、自衛隊のヘリがどこに降りることができるのか適地調査も実施しています。阪神・淡路大震災では、広島から神戸に向かった時に、どこへ入ればいいのか分からなかった苦い経験があったので、自衛隊がどこに、どのように展開するかを決めておかなくてはいけないと考えていたのです。今回、通信がシャットダウンして市町村と連絡がとれない中で、速やかに活動にあたれたのも、そのおかげです。

小山 今振り返って、あの時の判断で本当に良かったのかということは正直あります。しかし、あれ以上のことができたかと言われたら難しい。確かに、もっと事前にやっておくべきだったこと、想定しておくべきだったこともあります。広域の受援計画や、遠野との連携の仕組みは、時間があったなら、作っておくべきだったでしょう。 

ただし、そのような中でも、できる限りのことはした。その中で得られた教訓を次に生かしていくことは我々の役目でもあります。