兵庫県中小企業団体中央会は9月17日~18日の2日間、東日本大震災で被災しながらもBCP(事業継続計画)の発動など

で早期復旧を果たした宮城県内の企業を視察した。震災から2年半が経過した今、改めて災害時の状況を振り返るとともに、震災を機にBCPをいかに改善しているかなどを学ぶことが目的。視察先は、弊誌でも何度か取り上げてきた宮城県名取市の廃油リサイクル会社のオイルプラントナトリ、仙台市の皆成建設、同じく仙台市にある老舗小売店の藤崎。同会の視察に同行した。

■オイルプラントナトリ 
最初に訪れたオイルプラントナトリは、東日本大震災で海岸から1㎞ほど離れた場所にある工場が津波にのみ込まれ全壊しながらも、BCPであらかじめ優先業務を定め、県外企業との連携も深めていたことなどから、被災1週間後から事業を再開させた企業。 

震災直後に取材で訪れた時には、工場周辺は雑木林が津波でなぎ倒され、いくつもの住宅が倒壊して、自衛隊職員が遺体の捜索活動を続けている状態だった。同社工場も当時はようやく事業を再開させた状況で、2つある工場のうち1つには、ボロボロになった倉庫や被災したトラックが無残な姿で放置されていた。同社には、震災半年後の2011年8月にも訪れたことがあるが、その時には施設類のほとんどはすでに修復を終え、事業は順調に回復していた。 

あれから2年。工場周辺は、がれき類こそ無くなっているものの復興が進んでいるとはとても言えない状況だった。昔あった建物や林がなくなったため、1㎞先の海岸沿いに新たに整備された防潮堤まで眺望できる。 

一方、工場内はさらなる修復を遂げていた。この場だけ見れば津波で被災した工場とはとても思えない。

視察では、同社の星野豊常務が、震災からの取り組みを説明してくれた。 震災後、BCPの発動により早期に事業を再開させ、一時的には復興特需もあり、売り上げはそれまでの年を上回る勢いで伸びた。被災しても継続すべき中核事業を定め、それ以外の事業は止めることで、経営資源を収益性の高い中核事業に集中させ会社の命を守るという、まさにBCPの理想像を実現した。 

しかし、現在の売り上げは被災前を下回るという。中核事業を守れた一方で、切り捨てたそれ以外の事業の顧客が戻らなかったことが理由だ。「事業が再開できたからといって、一度離れたお客様に、さぁ戻ってきてくれとは言えません」(星野常務)。 

現在、同社は新たな事業への挑戦を開始している。1つはスーパーなどで排出される食品が付着したプラスチック類の燃料化事業。匂いがついたようなプラスチックの多くは焼却処分されているが、同社はこれをセメント工場の代替燃料にする技術を確立した。 

2つ目は、汚泥や油泥、粉泥などをセメントの原料に加工する事業。現在、東北などの被災地では、震災がれきがセメントの原料に使われているが、復興には莫大なセメントが必要になる上、がれき類はいずれ底をつくことから、それを見据えて新たな手を打った。星野乗務は「BCPを作っていたとしても、昔の事業をそのままやったのでは収益は100%に戻らない。3年後、5年後を見据えて、さらに高い目標を夢見て、新しいことに挑戦し続けることが必要」と話してくれた。

■皆成建設


仙台市若林区にある総合建設業者の皆成建設も震災前からBCPを策定していた企業だ。津波の被害は免れたが、大きな揺れにより本社が被災。屋外にテントを張り社員をそこに移し、事業を途切れることなく継続させた。本社が被災することを想定し、屋外でも事業継続できるよう暖房用品、非常用バッテリー、通信機器などを事前に備えていたことが奏功した。 



視察に訪れた時には、当時の本社は倉庫に変わり、代わって新しい社屋が建設されていた。倉庫の中には、3日分の水と食料、毛布、トイレなどがワンセットになった防災備蓄セットが従業員分ぎっしり入っていた。震災前は、食料、水、毛布類など別々に保管していたが、使い勝手が悪かったことから見直したのだという。 

説明してくれた管理グループ総務チームの渡邊知彦氏は、石巻市にある実家が津波にのまれ、母親は今も行方不明だ。渡邊氏は「ショックでしたが、会社の仕事があったことから考える暇もなかったし、1週間程度で頭を切り替えることができました」と当時の心境を打ち明けてくれた。彼の言葉からは、会社が事業を継続させることが社員の生活にとっていかに重要かということがにじみ出ていた。 

震災後は、被災の教訓を忘れないよう毎年1回、全社的な訓練を行うとともに、月1回は安否確認の訓練をしているという。また、震災前のBCPでは、「社員の安否確認をしてから家族の安否確認をし、その上で現場の状況確認をする」という計画を策定していたが、実際には時間ごとに明確にやるべきことを区切ることは難しく、同時進行でいつまでに何と何をするかといった具合に柔軟性を持たせた計画に見直したという。

■藤崎百貨店 
藤崎は、創業190年以上の仙台市の老舗百貨店。青葉区にある本店は、本館を含む4つの建物で構成されており、最も古い建物が昭和7年に建設されていることもあり、建物の結合部を中心に被害を受けた。 

視察では、同社CSR室長の庄子直氏が当時の状況やその後の取り組みについて説明。被災当時、同社はBCPを策定していなかったが、顧客の安全を守るため繰り返し訓練をしてきたことや、1978年の宮城県沖地震を体験した従業員が当時の経験を語り継いできたこと、2010年のチリ地震の津波騒動の時に実際に従業員を避難させた経験があることなどから、暗黙知のうちに顧客を安全に避難誘導するなどの行動が取れたという。

被災翌日には、店内が使えないことから路上で食料品や生活用品の販売を行い、事業を継続させた。レジも使えない状況の中、100円商品、200円商品などお釣りが出ないように工夫するなど、まさにBCP的な活動で乗り越えた。 

被災後に作ったBCPでは、可能な限り営業活動を継続するとともに、店舗施設が被災した場合でも、2カ月以内に完全復旧させることを目標に置き、建設業者との連携も最確認したという。帰宅困難者などの受け入れの可否についても課題となったことから、外部からの帰宅困難者は受け入れないなどの基準を設けるとともに、顧客の避難誘導についても「自力で逃げられない要援護者に限り、付き添って避難誘導する」ように定めた。 このほか、都内や岡山県、大分県の百貨店と、災害があった時にはお互いに商品を供給しあう協定を締結した。 庄子氏は「震災時を振り返ると、たくさんのお客様が店の前に並び、中心商業地の力の凄さと、店員とお客様が顔を合わせて買い物をするリアル店舗の力を実感しました。百貨店や中心市街地は都市の大切なライフラインです」と語った。