軍部の満蒙進出論に反対した石橋湛山(出典:Wikimedia Commons)

石橋湛山~鋭い洞察力と軍部批判~

民主主義国家の原点は言論の自由である。イギリスの詩人ジョン・ミルトンが400年も前に「アレオパジチカ」で訴えたように。戦前、政府の過酷な言論統制により、言論の自由が圧殺されようとした。その時、敢然として軍部の横暴を批判し、言論の自由を貫こうとした新聞社やジャーナリストは決して多くはない(新聞が熱狂的な国民の戦争熱をあおり発行部数を増やしたことも歴史的事実である)。

ここで石橋湛山(たんざん)と桐生悠々(ゆうゆう)の身命を賭した言論活動を、好著「太平洋戦争と新聞」(前坂俊之)を参考にし、一部引用して考えてみたい(引用文は原文のママ)。

「東洋経済新報」(週刊経済誌)で一貫して「個人主義」「小日本主義」を唱えた自由主義の言論人石橋湛山(1884~1973)は、1931年の満州事変勃発に際して、「近来の世相ただ事ならず」と国の運命を危惧し、満蒙放棄論を主張し続けた。当時発行部数を二分した「朝日新聞」や「毎日新聞」と比べても、湛山の先見性と一貫性はひときわ光っている。浜口雄幸首相が1930年11月、東京駅頭で狙撃事件に遭遇し、幣原外相が首相代理となったが、翌年2月3日の衆院予算総会では与野党の乱闘事件が起こった。この時、湛山は「国を挙げて非合法化せんとす」(1931年2月14日号)を掲げ、議会だけでなく社会全体の非合法化の方が著しい、と忌憚ない憂慮を示した。日中戦争は泥沼化していく。

「過去の歴史にこれを観るに、総(すべ)て社会の制度を固定し、柔軟性を失いたる時には、極まって非合法暴力行為が盛行する」と「万機公論に決す」民主主義の必要性を訴えた。

浜口内閣が倒れ4月14日、第二次若槻内閣が発足する。「近代の世相ただ事ならず」(同年4月18日号)で「世相はほとんど乱世に等しい」と憂慮し、「国はいよいよ暴力的無道に陥る外はない。世の中に道義を無視する程怖いものはない。国民が理性に信頼を失えば何を為すか分からぬ。記者(石橋)は、近来の世相を諦観して、誠に憂慮に堪えない」と警告した。

石橋の鋭い洞察力は「指導階級の陥れる絶大の危険思想」(同年5月2日号)にも表れている。この中で、指導階級の無責任と勇気のなさを真正面から批判し、「我国の治者階級、指導階級の人々が、殆んど挙(こぞ)って、直面せる経済困難、社会不安に引きずられ『どうにかなるだろう』の頼りなさイジけた慰めにかくれ、これを克服する積極的の計画と実行に従う勇気及び熱誠を欠くことである。この困難不安に対し『どうにかなるさ』で、時運の回転を待つ態度を改めないならば、その結果は必ず近き将来に、今より幾倍の大難を我国に招くに相違ないことを」とその後の母国の運命を予言している。

「軍閥と血戦の覚悟」(同年7月4日号)では、若槻首相の軍縮路線を支持し、「軍閥が男の信ずる国策に従順ならざる場合は、断然進退を賭して血戦せられんことを切望する。世論は必ず沸騰して若槻首相を支持するに相違ない」と断言した。

湛山の危惧が的中して、満州事変が起きると、「内閣の欲せざる事変の拡大、政府の責任すこぶる重大」(9月26日号)では、政府と軍部の不一致ぶりを「内閣が軍部の方針に屈し、其の引き回すままに従ったということだ。内閣は滅びたに等しい」と糾弾した。

事変勃発によって「大阪朝日」(当時「朝日」は大阪と東京に本社を置いた)は主張を180度転換した。だが、石橋は「満蒙問題解決の根本方針如何(いかん)」(9月26日、10月10日号)で2回にわたり満蒙放棄論を展開し、「満蒙を放棄すれば、果たしてわが国は滅びるか」と問いかけた。満蒙の特殊権益の確立は力で無理押ししても、中国民衆のナショナリズムによって不可能であることを事実に基づいて論じ、満蒙問題の解決方法は中国の統一国家建設の要求をどう見るかにかかっているとした。

「未曽有の外交失敗」(10月31日号)では、国際連盟理事会における対応の誤りを指摘し、「非合法傾向いよいよ、深刻化せんとす」(同日号)では、再び世の中の非合法的傾向に強い憂慮を示し、「今の我国は有史以来稀にみる危機に立てることを断言する。しかもそはただに内政に於てのみならず、外交に於てまた然り。がこの外交の危機なるものも、その因って来る所を尋ぬれば、畢竟(ひっきょう)内政に対する国民の希望の喪失に根底する」と鋭く洞察していた。

こうした未曽有の危機に対して、新聞や学者、評論家らのジャーナリズムが軍部を恐れて、時代に媚びる姿勢を批判し、「真に国を愛する道―言論の自由を佐興せよ」(同年11月14日号)で日蓮上人が困難に対して、「我れ日本の柱たらん」と誓い、いかなる権力も恐れなかったことを引き合いに出して警世の社説を書いた(湛山の父は日蓮宗の僧侶であった)。

「ある部分に対しては法規に依る言論圧迫もある。が、記者(石橋)は今日の我国が斯(か)くも無慚に言論の自由を失った最も大なる理由は我が学者、評論家、識者に、或は新聞其の他の言論機関の経営者に、自己の信ずる所を憚(はばか)る所なく述べ、以て国に尽すの勇気が650年前、日蓮の有したそれの百分の一も存せざることにありと考える。
それ所か、中には、我国が、現在表面的世論に迎合さえして、心にもなき言論をなしつつある者も絶無ではないかに察せられる。最近の我国は、実に恐るべき非合法運動に、一歩を誤らば、飛んでもない事態に立ち至らんとする危機に臨んでおる。この狂瀾を既倒に廻(めぐ)らす方法は、若(も)しありとせば、唯だ自由なる言論の力のみだ。然るに其の自由なる言論が或る力に圧伏せられて、全く屏息したのでは国家の前途を如何せんである」

湛山は亡国とその要因となった言論の屈伏を鋭く洞察したのである。「東洋経済新報」は湛山の判断で婉曲的な政府批判などの工夫をこらし戦時下も存在を続けた。