軍部の無策を突いた桐生悠々(出典:Wikipedia)

桐生悠々~軍部の非科学性を痛罵~

満州事変以降、言論統制に躍起になったのが軍部をはじめ軍部と一体となって暗躍した在郷軍人会、右翼、政治家、軍国主義者、暴力集団らであった。1932年の5・15事件のように直接的なテロや暴力を加えたり、軍批判の言論報道には脅迫や威圧を交えて、記事の取り消しや謝罪を要求した上、不買運動という新聞社のアキレス腱を攻め立てて、屈伏させていった。

こうした集団によって標的にされた新聞の一つに長野県の有力紙「信濃毎日新聞」がある。主筆・桐生悠々(1873~1941)は1933年8月1日に社説「関東防空大演習を嗤(わら)う」を書いたが、軍部らはこれを攻撃して退社に追い込んだ。

関東防空大演習は1833年8月9日から3日間、人口500万人の帝都・東京を中心に1府4県で実施された。演習地域は帝都を中心に直径300kmに及び、攻撃方は陸海軍の航空部隊や航空母艦の艦上機があたり、防衛方には陸軍の戦闘機3個中隊がまわり、史上初の大規模演習が展開された。大演習の模様を信濃毎日・朝刊(8月10日)は「3機編隊の赤翼機、凄惨帝都を猛撃、全市修羅の巷と化す」の5段見出しで報じた。

問題となった社説「関東防空大演習を嗤(わら)う」(8月11日朝刊)は、演習2日目の模様を報じる第一面左横に掲載された。特に、笑うではなく、嗤う(「あざわらう」の意)という挑戦的タイトルが冠されていたが、内容はごく常識的なもので、特段反軍的ではなかった。

悠々は防空演習の弱点を鋭く突いた。敵機1機でも東京上空に入れば敗北である。木造密集の家屋は大火災をもたらす。「関東大震災以上の惨状になり、防空演習など全く役に立たない」と論じ、夜襲に備えて、消灯して敵機から見えなくせよというのも非科学的、滑稽であり、「東京上空で迎え撃つのではなく、断じて敵機を領土内に入れるな」と主張した。

「架空的なる演習(防空大演習)を行っても、実際には、さほど役立たない。我儘(わがまま)の総動員によって、敵機を迎え撃っても、一切の敵機を射落とすことはできず、その中の2、3のものは帝都の上空に来り、爆弾を投下するだろう。投下された爆弾が各所に火を失し、そこに阿鼻叫喚の一大修羅場を演じ、関東大震災当時と同様の惨状を呈する。だから、敵機を関東の空に迎え撃つということは我軍の敗北そのものである。断じて敵機を我領土の上空に出現せしめてはならない。帝都の上空で敵機を迎え撃つが如き、作戦計画は滑稽であり、(夜間攻撃で)消灯してかえって市民の狼狽を増大させるのは滑稽でなくて何であろう。赤外線を戦争に利用すれば、明かに敵軍機の所在地を知り得るので、撃退することは容易である。要するに、航空機はヨーロッパ戦争に於て、ツェッペリンのロンドン空襲が示すが如く、空襲したものの勝であり、空襲されたものの負である。空撃に先立って、これを撃退すること、防空戦の第一義でなくてはならない」。防空演習の非科学性を見抜いており、空襲・敗戦を予見した内容となっていた。

桐生の論説は大きな波紋を呼んだ。軍は機密にしていたが、防空戦闘機などなかったのである。在郷軍人会の信州在郷軍同志会はいっせいに反発した。「陛下が御沙汰書まで出した大演習を『あざ笑う』とは何事か」と抗議し、小坂武雄常務の謝罪文を紙面に掲載するよう要求した。同志会は信濃毎日のボイコット、不買運動を起こすと脅した。当時、信濃毎日の発行部数は2万部で、これに8万人という同志会が不買運動を起こせば結果は目に見えている。だが、無謀な軍人の圧力に屈するわけにはいかない。

小坂常務は経営の圧迫に悩み、同志会幹部と再三にわたって会談し、上京して軍部中央とも折衝しようとしたが、軍部は話し合いを拒否した。9月8日、桐生は「評論子一週間の謹慎」を掲載した。天皇の御沙汰の件は恐縮にたえないと謹慎したが、自分の論旨は間違いない、と言外ににおわせた。だが桐生が信濃毎日で再びペンをとることはなかった。信濃毎日の抵抗は不買運動に抗すべくもなく2カ月で屈服した。桐生は3カ月後、30年の新聞記者生活に別れを告げ名古屋守山町の旧宅へ引き上げた。しかし、闘志は燃え続けた。個人誌「他山の石」に拠ってファシズムと戦うのである。

参考文献:「太平洋戦争と新聞」(前坂俊之)、同書から多くの史実を学ばせていただいた。お礼を申し上げたい。「石橋湛山評論集」(岩波文庫)、「抵抗の新聞人 桐生悠々」(井出孫六)、筑波大学附属図書館文献。

(つづく)