高橋由一の墓(東京・広尾の香林禅院、提供:高崎氏)

「日本洋画の父」高橋由一と東北地方

「鮭」(重要文化財)、「花魁」(同)、「甲冑図」などの大作で知られる明治初期の洋画家高橋由一は、江戸後期文政11年(1828)に佐倉藩(堀田氏)の支藩下野国佐野藩(1万石余、現栃木県佐野市)の江戸藩邸詰め藩士の家に生まれた。少年のころから絵画の才能に秀でた由一は、初め狩野派を学び、後に幕府の蕃書調所画学局に入って洋画の先駆者川上冬崖に師事した。次いで横浜在住のイギリス人画家ワーグマンに油彩の技法を学んだ。明治の文明開化の時期を迎えて、大学南校教官となり、その後日本橋浜町に私塾(絵画専門学校)天絵楼(てんかいろう)を設立した。原田直次郎、高橋源吉(子息)ら多くの門弟を育てた。明治11年(1878)には元老院の依頼で明治天皇の肖像を描いた。近代日本で本格的な油絵に挑んだ最初のパイオニアと言えよう。

「日本洋画の父」は、晩年になってそれまで縁がなかった東北地方にこだわり、中でも国土づくりの中核ともいえる都市づくりや道路・トンネル・橋などの大規模な土木事業をダイナミックなタッチで表現した作品を数多く残す。

明治14年(1881)10月、東北方面巡行中の明治天皇が臨席されて、山形県と福島県をつなぐ栗子山(くりこやま)トンネルの開通式が山形県側の坑口で開催された。山岳地に出現したトンネルの全長は870mで、当時としては異例な長さのトンネル工事はほぼ5年間を費やす難工事であった。明治天皇はこの難工事を指揮した山形県令・三島通庸の案内により徒歩で福島県側に抜けられた。途上で大作「栗子山隧道の油画」を天覧され、県の役人にこの絵を献じるように命じた。この油画こそ現在宮内庁に保存されている由一の代表作の一つである。

由一はこの年7月に東京を出発して11月の帰京まで4カ月にわたって東北地方を廻っていた。三島の委嘱による、主に新たに開発された道路(後に国道)の記録画を制作するためであった。東北の道路開発委事業に邁進していた三島に由一を紹介したのは同じ薩摩閥の歌人・高崎正風である。