詩人の新天地・柏への心象風景

大正14年(1925)4月、重吉は原っぱの中に創設されたばかりの千葉県立東葛飾中学(現県立東葛飾高校、県内有数の中高一貫の進学校)に英語教師として転任し、東葛飾郡千代田村柏(現柏市旭町)に住んだ。柏時代は、短い人生で終わった詩人の最昂揚期といえ、その結晶の一つとして処女詩集『秋の瞳』が刊行された。彼が生前に上梓した唯一の詩集である。詩碑(黒御影石)が東葛飾高校敷地の国道6号沿いの歩道に向かって立っている(全体の高さ1.8m)。
 
<原っぱ>
ずゐぶん
ひろい 原っぱだ
むしょうに あるいていくと
こころが
うつくしくなって
ひとりごとをいふのが
うれしくなる(大正14年9月「文章倶楽部」初出)

昭和初期、東葛飾地方には江戸期の小金牧をしのばせる広い原っぱが各所に残されていた。そこからは筑波山、富士山をはじめ日光連山も遠望できた。若き教師重吉はどんな「ひとりごと」を言って「うれしがった」のだろうか。
柏時代の心象風景を他の詩で確認する。

「<虫 >虫が鳴いている/ いま ないておかなければ/ もう駄目だというふうに鳴いている/しぜんと 涙をさそわれる」(「貧しき信徒」より)
「<壁>秋だ/ 草はすっかり色づいた/ 壁のところへいって/ じぶんのきもちにききいっていたい」(同上)
「<草をむしる>草をむしれば/ あたりが かるくなってくる/ わたしが/ 草をむしっているだけになってくる」(同上)
「<ねがい>きれいな気持ちでいよう/ 花のような気持ちでいよう/ 報いをもとめまい/ いちばんうつくしくなっていよう」(『信仰詩編』より)
「<妻に与う>妻よ/ わたしの命がいるなら/ わたしのいのちのためにのみおまえが/生くるときがあったら/ 妻よわたしはだまって命をすてる」(ことば)

重吉が東葛飾中学で教鞭をとったのは翌年3月までの1年間に過ぎなかった。だがこの1年間は日本の詩壇の流れに一石を投じたのであった。彼は「死の病」肺結核に冒されていた。教壇を去って神奈川県茅ケ崎の病院に入院し、病床で第2詩集『貧しき信徒』の自選を行った。昭和2年(1927)10月26日不帰の人となった。重吉は29歳8カ月、惜しみて余りある。妻とみ子は2児を抱えてまだ23歳だった。