2018/08/20
安心、それが最大の敵だ
ハーンの嘉納柔道論
ラフカディオ・ハーン(日本名・小泉八雲)は嘉納の招聘を受けて第五高等中学(現熊本大学)の英語教師となった。ハーンは校長嘉納を敬愛し「柔道」を書いた。(以下「東の国から」(ハーン)の「柔道」より)。
「官立高等学校(第五高等学校)の校庭に、ほかの校舎とひときわ建て方の違った建物が、ひと棟ある。この建物は、紙の代わりに、ガラスをはめた障子が入れてあることだけを除けば、あとは、純日本風な建物だといってさしつけない。間口も広く、奥行きも深い、一階建ての建物で、なかはだだっ広い、百畳敷きの部屋がひと間あるきりである。この建物には、名前がついている。日本の名前で、「瑞邦館」―「浄らかな国の大広間」という意味だ。(中略)。なお、壁間の額には、勝伯(勝海舟)の書で、漢字が幾字か書かれてある。「深い知識は最上の財産である」と言う意味の文字である」。
「このだだっぴろい、飾り気のない部屋で教えられる学問は、いったい何であるかというと、それは柔術と申すものである。しからば、柔術とは、いったい何であるか。
いったい、柔術というものは、これは昔のサムライがえもの(武器)を持たずに、相手と戦った術なのである。柔術について何も知らない門外漢が見たら、ちょっとレスリングみたいに見える。かりに諸君が、「瑞邦館」で稽古が始まっている時に、たまたまそこへ入って行ったとする。諸君はそこに、一団の生徒がぐるっと回りを取り巻いた、その真ん中のところで、十人か二十人ぐらいの、体のしなやかな若い生徒たちが、素足素手で、おたがいにくんずほぐれつしながら、畳の上で相手を投げたおしている光景を見られるだろう。そのとき、きっと諸君が奇妙に思われることは、室内が死んだように声ひとつしないことだろう。ひとことも物を喋っているものがない。もちろん、やんやと囃し立てたり、興にのったり、そんなそぶりをするものは、絶対にいない。にやにや笑っているものさえいない。絶対の平静自若、―これが柔術道場の鉄則で、厳格に規則で決められていることである。それにしても、部屋全体のこの平静さ、そして、これだけの人数のものが、みな息を呑んで、しーんと静まりかえっているこの光景。これは、諸君に偉観だという印象を与えることは請け合いである」。
「わたくしが、特に諸君の注意を促したいのは、柔術の達人になると、自分の力というものに決して頼らないという事実だ。そういう達人になると、最大の危機に臨んでも、自分の力というものは、ほとんど使わないのである。それでは何を使うかというと、相手の力を使うのである。敵の力こそ、敵を打ち倒す唯一の手段なのだ。つまり、柔術が諸君に教えるものは、勝利を得るには、必ず相手の力のみ頼れ、ということなのだ。そして相手の力が大きければ大きいだけ、相手には不利になり、こっちには有利になるのである。それについて、今でも私は憶えているけれども、あるとき、柔術の大師範のひとり(嘉納治五郎)から聞かされた話で、大いに驚いたことがある。それは、わたくしが柔術のことは何にも知らずに、ただ自分一人の考えだけで、クラスの中ではあれが一番かなと思っていた、ある力の強い生徒がいたが、ところが、その大師範に言わせると、その生徒には、どうもやってみると、非常にわざが教えにくいというのである。なぜでしょうかといって聞いてみたら、こういう答えであった。「あの男は、自分の腕力に頼りおって、それを使いよるのでなあ」と。「柔術」という名称そのものが、すでに、「身を捨てて勝つ」という意味なのである」。
大師範嘉納の柔道論を賞賛していることは言うまでもない。
◇
日本の近代スポーツの道を開いた嘉納は、1909年(明治42年)にはフランスのクーベルタン男爵に懇望されて、東洋初のIOC委員となる。1911年(明治44年)に大日本体育協会(現日本体育協会)を設立してその会長となる。1912年(大正元年)、日本が初参加したストックホルムオリンピックでは団長として参加した。1936年(昭和11年)のIOC総会で、1940年(昭和15年)の東京オリンピックの招致に成功した。ベルリンから「オリンピック、東京決定」を告げる日本向けラジオ放送があった。放送局でIOC委員・副島道正は感動のあまり声が出ず、マイクの前に平伏しむせび泣いた。同じくIOC委員・嘉納師範が喜びの声を届けた。
「思いがけない大勝だった。24年前に金栗(四三)、三島(弥彦)の2選手(両名とも陸上)を連れてストックホルムに行った時は、まるで勝海舟が(遣米使節随行の咸臨丸で)渡米した時のような気持だったが、東京での開催は、オリンピックが真に世界的なものになると同時に、日本の真の姿を外国に知ってもらうことが出来るので、二重に嬉しい」。嘉納は旧幕臣勝海舟を畏敬する。
だが日中戦争の激化により、オリンピック開催は返上に追い込まれる。
参考文献:「中国人日本留学史研究の現段階」(大里浩秋ら編)、「嘉納治五郎」(講道館)、「嘉納治五郎師範に学ぶ」(村田直樹)、「東の国から」(ハーン)、筑波大学附属図書館文献。
(つづく)
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