粕壁中学教師時代の作品

楸邨が粕壁中学に勤務したのは昭和12年(1937)までの8年間で、その間の作品は「寒雷」(処女作)に収められている。「古利根抄」(昭和6~9年作)などの中から私の好きな句を抜き出してみよう。

<元荒川>と題された句
・洲の鴨のふたたび鳴かぬ夜の雨
・摘みわけてゐる綿の実に夕日影
・降る雪にさめて羽ばたく鴨のあり
・行く鴨にまことさびしき昼の雨
<古利根>や<船戸>と題された句
・山茶花(さざんか)のこぼれつぐなり夜も見ゆ
・行きゆきて深雪の利根の船に逢ふ
・老いし水夫(かこ)吹雪の面を手に拭う
・あわれなる寄生木(やどりぎ)さへや芽をかざす
<川間駅>と題された句
・末枯に鶏をはしらせ電車来ぬ
<晩秋>と題された句
暴風雨くる夜の人ごゑは晩稲刈(おくてがり)
稲妻のきらめく畦(あぜ)に稲負へり
稲妻のちから衰へしぐれきぬ
昭和12年、楸邨は中学教師を辞めて東京に移り住む。その時<古利根を去りて東京に出づ>と題された句
・菜が咲いて鳰(にお)も去りにき我も去る

秋桜子の勧めで「馬酔木(あしび)」発行所に勤務しながら、東京師範学校(現筑波大学)の上にできた国立大学で今日の大学院に相当する東京文理大学国文科に進学する。31歳の大学生(実質的には研究生)である。

<文理科大学占春園>と題された句(占春園はキャンパス内に残された江戸期の庭園)
・身のほとり木の芽の光ふるごとし

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昭和26年(1951)秋、楸邨が46歳の時、高齢の彫刻家・詩人高村光太郎を岩手県の山間地山口村(当時)の自己離謫(るたく)の地に訪ね初面会をした。印象記を「俳句遠近」に載せている。「人間探求派」らしい文章の一部を引用したい。

「光太郎翁はこんなことをいわれた。『僕はバッハのブランデンブルグ協奏曲がどうしても聞きたくなることがある。それは今花巻の知人の家にしかない。思いたつと僕はすぐ花巻まで歩いてゆく。そしてとにかく何よりも先にブランデンブルグ協奏曲に耳を傾ける。するとだね、僕の中に睡っていたものがさっと目を覚まして、僕の中で生きて動き出すんだ。これが消えない中に薄(すすき)の原の中の夜道を山口村に帰って来るのだよ。君、その道道、薄の上の空をだね。ブランデンブルグ協奏曲が波濤のように走り奏でられるんだ。僕ももちろんその曲の中で歩いている。月も星も薄も何もかも曲の中にあるわけだ』。私は残念ながらそれまで音楽には縁が遠くて親しむことがなかった。両手をタクトのように振りながら話してくれる翁の水っ洟(ルビぱな)がときどき飛び散ったことを忘れることができない」。

傑出した芸術家の精神性をこれほど見事に描いた訪問記にはなかなか巡り会えない。