震災から約1カ月後の石ノ森萬画館(左)。周辺には流された建物や船が見える(出典:Wikipedia)

津波に急襲される

東日本大震災の大惨事からから約3カ月後の2011年初夏、私は仙台湾に向かって開けた宮城県石巻市を一望できる日和山(ひよりやま)に登った。同山は旧北上川の西岸(右岸)にある。標高56.4mで、市内の中央部にある丘のような低山である。江戸時代に書かれた地誌によれば、山の名は石巻から商船が出航する前に、この山に登って天候を観察したことから付けられたという。元禄2年(1689)年5月10日には、俳聖松尾芭蕉が訪れ、同行の河合曽良が眺望を日記に記した。山上に二人の像が建てられている。

日和山から見下ろした市内の惨憺たるありさまは今も忘れない。足下の市街地は、津波の襲来と旧北上川の氾濫で泥海と化した無残な姿を残していた。地震後の地盤沈下が追い打ちをかけ海水が市街地の奥にまで侵入してきていた。

人影のまばらな旧北上川河口部の中洲(中瀬地区)に真っ白い大型ドームが取り残されたように光っていた。石ノ森萬画館である。同館は宮城県登米市出身の人気漫画家石ノ森章太郎 (いしのもり しょうたろう、1938~1998)氏の発案で建てられた。シャッター街のさびれた石巻市街地に、にぎわいを取り戻し若者向けの情報を発信することを目的に、2001年7月に開館した。同館の外観は「宇宙船」をイメージして作られた。オープン直後から海辺の観光スポットとして人気を博した。

<町おこし><活性化>のシンボル的存在だった同館は無残にも津波に繰り返し直撃され泥海に孤立した。私は日和山から同館に向かい、業務課長大森盛太郎氏に面会し被災体験を聴かせていただいた。被災者の「衝撃(ショック)」を風化させないためにも、ここから以降は氏の体験談を記しておきたい。

<地震発生時から津波襲来まで>
3月11日午後3時からの会議に出席するために、石巻市役所に向かっている車中(駅前の魚民付近)で地震が発生した。大地震とすぐ分かる地鳴りと強烈な揺れにハンドルを取られそうになり、車が踊るように飛び跳ねる。思わずその場に急停止するが、目の前のビルがうねる様に揺さぶられ、市役所屋上付近では、ガラガラと物が崩れ落ちる音が聞こえたために、身の危険を感じて地震で道路が揺れる中、対向車線を逆走しながら車を安全な場所(駅前ひろば付近)へ移動する。

ほどなくして地震は収まったが、石ノ森萬画館の管理人の一人として、すぐさま来場者とスタッフの安全を確保しなければと思い、萬画館へと車を引き返した。途中、店舗の壁やショーウインドウが破損した商店街を通り、停電で信号機が作動せず、路上に停車している車も多く、思うように移動出来なかったが、発生5分後になんとか萬画館へ戻ることが出来た。

当時の萬画館来場者は約30人程度。有事の際の来場者緊急誘導については萬画館スタッフも心得ていたので、自分が漫画館へ到着した時にはすでに来場者の避難も終え、館内の施錠をしたうえで、臨時閉館の措置を取り終えていた。

テレビもつかず、ラジオもなく全く状況はつかめなかったが、市の防災無線で早い段階から大津波警報発令のアナウンスがされていたので、その情報をもとに館内スタッフへ道が混む前に急いで中瀬付近から離れて各自帰宅するように指示を出し、自分だけが館内に残る。

前年のチリ地震津波の際には、中瀬付近では50cm程の潮位の変化しかなかったので、大津波警報が発令されているのは分かっていたが、予想される津波の規模や到着時刻などについても全くわからなかった。今回も津波が来たとしても前年の倍(1m)ぐらいだろうと思っていたのだが、念のため自家用車を中瀬から対岸側の駐車場に移動させたうえで、地震の被害状況をまとめるために、館内と萬画館周辺の報告写真を撮影して回る。

日和山から見た石ノ森萬画館。海辺の観光スポットとして人気を博す(提供:高崎氏)

津波襲来、状景に絶句

雪が降って来て、対岸(旧丸光前)の水位が急激に下がり、もうすぐ津波が来るだろうと漠然と考えながらも、昔聞いていた50年前の地震津波の予兆(津波が来る前に北上川の川底が見えた)に比べると、まだまだ水位も下がっていなかった。

津波の到着までにはまだ時間がかかると思って、萬画館1階の交流コーナ―でイスに座り一息つこうと思った直後に、ザザーッという水が流れる音とともに川の水が目の前を逆流して行くのを目撃した。

今まで聞いていた津波の襲来と現実との違いに戸惑いながら、急いで館内のスロープ越しに上へ移動し、ここなら大丈夫だろうと少し高い場所から1階の状況を見ていると、萬画館入口付近に設置してあったロッカーや案内板が津波の勢いで正面入り口付近のガラスを突き破り館内へ流れ込み、その後、間髪を入れずに館内に海水が流れ込んできて、館内のあらゆるものが流されていくのを目の当たりにした。

ふと横のスロープのガラス越しに外の様子を見てみると、すでに自分の目の高さまで波が迫っており、館内の海水もスロープを勢いよく上ってきていたので、身の危険を感じて、急ぎ走って萬画館の3階まで駆け上がって逃げた。3階の図書コーナーには出窓があり、そこから館外(港方面)が見渡せるようになっている。津波は収まるどころか、さらに勢いを増して襲いかかって来た。

そして津波の色もだんだんドス黒いものに変わって来て、最初の頃は重油のようなすごい油臭を伴って波の速度をあげて行った。

<家が、車が、人が流される>

内海橋には渋滞で車が列をなして残されていた。東内海橋(港方面)に列をなしていた車は為す術もなく波にのまれて川に流されてしまっていた。ドライバーも逃げられない。萬画館向かいの住宅地は、河口側から順に「バリバリ」とすごい勢いでドミノ倒しになり、ちぎれ崩されていった。河口側からは黒い波とともに南浜町・門脇町方面のものと思われる瓦礫や車がどんどん流されて来た。

おそらく第一波で破壊された河口付近の家屋など、引き波で流された後で、第二波によって北上川を逆流して来たのだろうが、中瀬地区では引き潮を感じることもなく、第一波に重なるようにして第二波が襲来し、どんどんと水かさを増して襲いかかって来た。

崩れた瓦礫や屋根の上には必死にしがみつきながら流されていく方も数多くみかけた。流されていく人達の目の前には東内海橋(港方面)があり、河口から流されて来た瓦礫のほとんどは内海橋にひっかかり堰止められていた。

流されて行く人達は、次々に変わる目の前の状況への対処に必死な様子だった。時速50kmぐらいの勢いで流れてはぶつかり、山積みになっていく瓦礫の中に埋もれて見えなくなる人やぶつかった拍子で足を滑らせてそれっきり見えなくなる人達も数多く見かけた。萬画館の最上階にいて、自分はとてもではないが声をかけることが出来なかった。ましてや助けることなど到底できる術もなく、ただ茫然と見ているしか出来なかった。

雪もより一層強く降ってきており、周囲には壊されて流されて来た車のクラクションと大津波警報のサイレンがけたたましく鳴り響いていた。

被災者の避難生活が続いた石ノ森萬画館の入口。写真は再オープン後(提供:高崎氏)

救出活動と館内での避難生活

あたり一面が川(海?)に変わり、自分一人が生き延びてしまっている現実を実感するにつれて、30分前に避難させた萬画館スタッフの顔が脳裏によぎる。恐らくは渋滞に巻き込まれてしまい、車ごと津波で流されただろうと思っていた。この状況を目の前にして、市内のスタッフの生存はまずないだろうと感じ、自宅へ避難するよう指示を出した自分は目の前の津波のことよりも、自分の指示によりスタッフを危険な目にあわせてしまったという罪悪感に苛まれていた。

この状況にありながら、頭は冴えていて、色々なことを考えてあれこれと動いていた。自分自身もいつ萬画館が流されるかも分からないとの思いから、いざという時の命綱にと、萬画館の出窓にロープ代りになる延長コードを巻き付けて、最悪萬画館が流された時の対処法をあれこれ考えていた。

「萬画館は造船技術で造られた建物。だから流されることはまずないだろう。仮に流されたとしても水面に浮かぶから大丈夫!」と心の中で他愛のないことを考え、自分に納得させながら、不安を打ち消そうと必死だった。

そうこうしているうちに、目の前の川面は瓦礫で埋め尽くされていた。津波襲来から20分ぐらいが過ぎていたと思うが、その頃にはハリストス正教会前ぐらいまで流れ着いた瓦礫で川は埋め尽くされていた。

そんな絶望的な状況下においても、なんとか奇跡的に生き延びた人達がいた。西内海橋(市街地方面)と中瀬の間(横田釣具店)付近にかたまって避難していた約20人程の人達は身を寄せ合って流されるのを必死にこらえていた。

第2波(第3波?)の津波が落ち着き、水位が下がり始めた頃、萬画館の3階からその人達と目があった。「萬画館の中は大丈夫かあ」と叫ぶような声が聞えたので「3階は大丈夫だから、水が引いたら上がって来てください」と大声で叫んだ。その声が届いたらしく、橋のたもとにいた人達は、水と泥と瓦礫を掻き分けるようにして萬画館に向かって歩き出した。

避難してきた人は皆一様に放心状態。精神的にも限界を迎え、体力も使い切り、疲れ果ててしまっている皆を図書コーナーに誘導し、ずぶぬれになった体を拭ってもらうために、有料ゾーンで展示品を飾るために使用していた布製品をかき集め、それで体を拭いてもらった。

それ以外にも被災者はどんどん増えて行く。内海橋付近以外でも生存している人はみんな命からがら萬画館内へ逃げ込んできた。瓦礫にしがみついて流れてきたために低体温症になり、体が動かなくなっている人も何人かいた。そういった人にはずぶ濡れになった服を脱がしてあげて体を拭き、自分のトレーナーを着せて暖を取り徐々に体を温めてもらった。

その日は最終的に40人と犬1匹が萬画館に避難された。小さい子どもから認知症を患うお年寄りや持病も持つ方、流された勢いで骨折した方など、本当にいろんな方と寝食を共にすることになった。

萬画館の3階には「ブルーゾーン」という喫茶店があり、比較的食料のストックもあり、食料について困ることはなかった。停電のため電気はつかなかったが、運よく毎年7月に隣の中瀬公園で開催している「石巻マンガ灯ろう祭り」の準備のために、大量のろうそくを準備していたため、そのろうそくを使い明かりを灯すことが出来た。

ラジオについては常備していなかった。停電したことに加えて、津波の第一波が来た段階で携帯電話の通話も不可能になり、携帯電話で受信できたラジオも程なく電池が切れて聞けなくなったことで、夜を待たずに萬画館は外部から完全に孤立してしまった。

夜になり、萬画館から見えるのは湊小学校付近から立ち上がる煙と日和山を越えて南浜町側を包む火柱とモクモクと立ち上る煙。それに伴って流れて来る火が付いた瓦礫…。

知らないうちに降っていた雪もやみ、ふと空を見上げると、皮肉にも満天の星空が広がっていた。遠くから頻繁に聞える爆発音と日和山の奥に見える赤く燃える空…。その対照的な光景が妙に気持ち悪かったのが印象的だった。

その横では北上川は終日夜中になっても川の水位が上下を繰り返し、その都度ザザーという川から街中へ流れ込む音が響いていて、加えて余震も多く、ほとんどの人が眠れない夜を過ごした。

避難された方はみな3階から外を見渡していた。見慣れた景色の面影はなく、廃墟と化した周りの状況に絶句し、泣きだす方もいた…。

大森氏は「これ以上は語れない」と涙声で口を閉じた。幸いにも犠牲になった来場者やスタッフはいなかった。同館の再オープンは被災から約1年半後の2012年11月17日だった(取材に快く応じてくださった大森氏に感謝する)。

(つづく)