被災病院の現場
医療法人社団健育会 石巻港湾病院

宮城県石巻市にある医療法人社団健育会の石巻港湾病院は、津波により建物1階の天井までが浸水するなど、甚大な被害を受けながらも、入院患者のケアなどの医療業務を途絶えることなく行った。それを可能にしたのは、災害に対するスタッフの迅速な対応と、健育会グループ全体の経営をサポートする株式会社ヘルスケアシステムズ(東京千代田区)との連携体制による支援だ。

写真を拡大震災から7 日目には雪が降るほどの寒さとなった提供:㈱ヘルスケアシステムズ

 

石巻港湾病院は、全国に複数の拠点を持つ医療法人社団健育会(以下、健育会)が運営する病院の1つ。内科・リハビリテーション科など、4つの診療科からなる高齢者を対象にした中小規模の病院(5階建て、延べ床面積3784㎡、計135 床)。地震発生時には、入院133 名、外来8名の計141 人の患者が院内にいた。一方、今回の震災対応で大きな役割を果たした株式会社ヘルスケアシステムズは、健育会グループ全体の経営をサポートし、各病院の経理や人事、危機管理についても、実質的に同社がすべての管理を請け負っている。震災直後、同社は、東京千代田区の本社内に災害対策本部を立ち上げた。被災したグループ病院における震災対応の情報を一元化し、物資の確保や運搬、患者・職員の関係者からの問い合わせに対応するための電話窓口を設置するなど継続的な支援ができる体制を整えた。石巻港湾病院に加え、福島県いわき市の病院も被災したが、特に石巻は津波により壊滅的な被害を受け、通常の医療業務が続けられるような状況ではなかった。

 

■自力対応の3 日間


・1 日目


3 月11 日14 時46 分、地震発生で石巻港湾病院は全館が停電。院外の防災スピーカーからは大津波警報が流れた。院長と看護部長は訪問診療で外出中だったため、同病院マネージング・ディレクターの間山文博氏が現地のリーダーとして動いた。

「大津波警報の直後に、東京の対策本部より、職員と患者を2階より上に移動するように指示を受けました。窓からは川の水がゆっくり引いていくのが見えて、まだ津波が到達するまでに時間があるのではと思い、全員に、より安全な3階に上がるよう指示しました」(間山氏)。

その最中、15 時10 分頃に、院長と看護部長が帰着。そして、わずか10 分後に、大津波が病院を襲った。一気に、1 階の天井付近までが浸水し、病院の周りは瓦礫や漁船などで埋め尽くされ、外に退避することもできない状態となった。万が一に備え、間山
氏は院長と相談の上、3 階にいた94 人の患者全員を4 階と5 階に上げるよう指示した。

電気、水道、ガスなどのインフラはすべて止まった。地震直後は利用できた通信網も、発生から1、2時間後には、全く通じなくなり、東京の災害対策本部との連絡も途絶えた。院内にある防災対策用の備蓄品は、1 階にあった保管庫の鍵が流されたために、何も取り出すことができなかった。また、職員のロッカーも流されてしまったため、多くの職員は、上着すら確保できず、最低気温がマイナスにまで低下する中、寒さに耐えながら、その夜を病院で過ごすことになった。

・2 日目
翌朝からは職員と患者のための食料品確保が優先された。津波の水が引き瓦礫の山と化した1 階に戻り、消防署から工具を借りて自動販売機と保管庫の扉をこじ開け非常食や飲料水を確保した。入院患者のために、使えそうな薬も1 階から集めた。さらに、被災しながらも営業を続けていた近くのスーパーに事務職員が向かい、夜まで並んで職員用の食料を購入した。

写真を拡大震災直後から、入院患者のケアにあたる石田秀一院長

インフラが遮断された中、間山氏は全患者をケアするのは難しいと考え、重病患者を被災地外の病院へ搬送させようと警察と消防署に出向いたが、一切の対応を断られた。最後の頼みとして向かった市役所は、水没していた。「災害直後は、誰もが緊急事態。自分たちでなんとかしなければいけないと実感しました」と間山氏は、当時の状況を振り返る。

・3 日目
医薬品を確保するため、間山氏は、瓦礫をかきわけながら、災害時における基幹病院である石巻日赤病院を訪問し、医薬品の提供を依頼したが不可能と断られた。窮地に追い込まれたが、偶然にも、仙台方面に行けば一部電話が繋がるとの情報を入手し、急いで仙台まで足を運び、携帯電話でヘルスケアシステムズ内の災害対策本部に現場の被害状況を報告し、支援を依頼することができた。

■ようやく受けられた支援
市内全体の食料が底をつき、職員は50 キロ先の宮城県古川市まで車で買出しに向かったが、ガソリン不足が行く手を阻んだ。市内のガソリンスタンドは完全に封鎖されていたため、ガソリンは、病院近くに止まっていた職員のボロボロになった車から抜き取った。

一方、震災後、石巻との連絡が途絶えていた災害対策本部は、見切り発車で情報収集と救援物資の運搬を目的に先遣隊を石巻に向けて派遣。震災から3日目に災害対策本部の職員が18 時間かけて、1回目の支援物資を届けた。

現地に医療品や水、食料などが供給されたことで、水不足は一時的に解消された。その本部職員は、約2 週間にわたり被災した石巻港湾病院に常駐し、本部との連絡窓口となった。被災5日後の3 月16 日には、北海道にあるグループ病院からストーブが支給され、その翌日には本部からヘリコプターによって再び物資が届き、その後も連日の輸送隊による継続的な支援を受けることができた。

3 月14 日に大手建設会社が1階部分の瓦礫・ヘドロの除去作業を手伝ってくれたことも「大変助かった」という。

さらに、被災した石巻港湾病院の状況についての記事が3 月18 日付けの読売新聞朝刊に掲載された。その直後から、救援物資が急速に増加したと間山氏は振り返る。「街は壊滅状態だったので、病院周辺には、もう人がいないと思われていたのかもしれません。なかなか病院の存在を認識してもらえず支援が少なかったのですが、記事掲載後は石巻市からたくさん物資が届きました。マスコミの力を実感しました」(間山氏)。

■インフラの復旧
電気が使えるようになったのは、震災から1 週間以上が過ぎた3 月19 日。それまで夜間は懐中電灯で明かりを確保していた。上下水道の復旧は4 月6日とさらに遅れたが、3 月末には給水車が来た。地震発生からの2~3週間後は、それほど水で苦しむことは少なくなった。ガスは最も遅く、5 月12 日に復旧した。

職員の安否確認は震災から1 カ月以上続いた。地震発生時に病院にいた職員は全員助かったが、院外にいて津波の被害にあった職員ら3人の尊い命が失われた。

■絶対に患者を残して逃げない

写真を拡大石巻港湾病院マネージングディレクターの間山文博

近隣の病院では、患者を自衛隊に託して閉鎖してしまう病院もあったという。こうした状況の中で石田秀一院長は、最後まで責任を持って患者を守ることを決意し、職員全員にその意思を伝えた。「命を救うことが職員の使命です。院長の言葉で目指すベクトルが1つになりました」と間山氏は話す。放射線技師など電気が使えない状況の中で職務ができなくなった職員も、看護師やケアワーカーをサポートした。

3 月18 日には、災害対策本部が全国のグループ病院から現地サポートが可能な医師と看護師、計13 人を召集し救援医療スタッフとして派遣した。

被災後1週間を目途に、院内の職員の疲労が目立つようになったため、交代で休ませるようにした。3月19 日には、病院から約50 キロ離れた古川駅の近くにアパート5 部屋を確保し、病院での泊り込みが続いていた職員がローテーションで寝泊りができるようになった。職員の不安を取り除くために、本部職員が中心となり毎日ミーティングを行ったという。

ちょうど1カ月後の4 月11 日には、津波被害を受けていない病院の2 階を使って外来診療を再開した。「被災しても病院が診療を継続していることをアピールしたかった」と間山氏は話す。

現在、病院では物資の不足は一切なく、インフラもインターネット以外はほぼ復旧している。被災前まで1 階で行っていた外来、リハビリテーション、CT、レントゲン、厨房、医療事務に関しては、今年の8 月中旬に再開する予定だという。

写真を拡大1階の薬を集める職員 提供:㈱ヘルスケアシステムズ

■震災を通して見えた課題
間山氏は、今回の経験を通じて、今後の病院の災害対策について、いくつか課題を指摘する。まず設備面。診療をするためには、かなりの電気を使用するため、非常用発電機など電気のバックアップ対策が不可欠だとする。震災時には、灯りが確保できないことに加え、患者の痰(たん)を取り除くために必要な吸引カテーテルが使えなくなったり、ナースコールも使えない、電動ベットが傾いたまま元の状態に戻せないことなどが問題になったという。

2点目として、感染症防止対策を挙げる。水道が止まりトイレが使えない状態だったため、患者には携帯型トイレを提供したり、オムツを利用してもらった。職員は便器に新聞紙やオムツを敷いて1回ずつビニール袋に入れて捨てた。ただ、季節によっては、感染症が拡大する恐れがあるため、十分な対策が重要だとした。

さらに、今回の震災では、患者の医療カルテが流れてしまったことで、外来患者の処方箋を出すことが困難になったとする。患者の多くは自分に処方されている薬の名前が分からない。今後は、医療データのバックアップなどに加え、日常的な診察でも、医師が患者に薬を分かりやすく説明することが課題になってくると間山氏は話している。