アメリカ大統領への謁見(筑波大学附属図書館資料)

首都ワシントン到着

今から約160年前、開国に踏み切った徳川幕府はアメリカに使節団を派遣した。使節団首脳部はじめ従者らサムライ77人には、遥かな異国の地で見るもの、聞くもの、驚きの連続だった。衝撃と言っていい。「民主主義国家」の現場に立った彼らは何に覚醒したのか。今日の日米関係に照らしてみても示唆する事象はないか。ワシントンでの大統領謁見を中心に据えてその意味合いを確認したい。                  
万延元年(1860)閏(うるう)3月23日(新暦5月13日)。日本使節団を迎える首都ワシントンでは、午前11時半頃、一行を乗せたフィラデルフィア号の船影が見えるようになった。「日いずる国」のサムライが遠路はるばるやってくるとの新聞情報に接していた市民たちは商店や事務所を閉め、職人たちは仕事を休んで船着き場に殺到した。ワシントンはアメリカの政治・外交の中心地で、人口は6万人程度であった。

正午頃、フィラデルフィア号はワシントンの海軍造船所の上陸場に到着した。船首の上甲板に待機した軍楽隊はアメリカ愛国歌(「ヘイル・コロンビア」)を高らかに演奏し、砲台から祝砲17発が轟音を響かせた。船着場には4000人もの見物客が押しかけてきており、警察官が交通整理に大わらわである。一行の道を開けるのに一苦労であった。

使節一行は上甲板に姿を見せ首都の様子をうかがった。河岸には歩兵一連隊や騎馬隊一隊が出動しており、それぞれ一列に整列して日本使節団の上陸を待った。正使・新見(しんみ)豊前守、副使・村垣淡路守、監察・小栗豊後守の三使と幹部は応接担当のデュポン陸軍大佐やその他の士官に案内されて上陸すると、ブキャナン提督に迎えられた。提督はペリー提督が黒船艦隊を率いて来日した時、同行したのであった。

新聞記者も取材に忙しく、反対側の二階造りの家には写真師が構えていて、日本人の上陸の様子をさかんに写真に収めている(サムライ一行は新聞記者の存在を知らない)。ワシントンは早くも歓迎ムード一色である。一方で、厳重な警戒も怠らない。使節団一行の驚きと戸惑いは高まる。

大歓迎と豪華なホテル

使節団は、黒山のような市民や列を作って警備している兵隊の間を歩いていくと、美しく飾り立てた四頭立ての馬車が待機していた。正使新見と副使村垣はデュポン大佐と同じ馬車に乗り、監察小栗と勘定組頭森田岡太郎とが同車し、その他の下役らは2~3人ずつ同車した。軍楽隊の演奏とともに馬車の列は動き出した。

海軍造船所の門を出て市街に入ると、首都の華麗な街並みが眼前に現れてきた。日本人の馬車一行が姿を現すと、「カーン」「カーン」と鐘の音が街に響きわたる。使節団に敬意を表するためである。馬車の行列は8kmほど走って宿舎前に到着した。旅宿となったのはワシントンでは最大・最高級のウィラード・ホテルである。5階建ての広壮・優美な建物で、中心街の14番街とペンシルヴェニア通りが交叉する地点にあった。三使に用意された部屋は3階の特別室である。小栗は15畳分もある華麗な部屋に足を踏み入れて驚くとともに、日本にも外国に恥じない立派な洋式ホテルを建てたい、としきりに思った。副使村垣は「日記」に記した。

「閏3月15日(新暦5月15日)、この宿もしばらくここで滞在するかと思うと、船の中よりも気持ちが落ち着いてきた。ガラス窓を通して見ると軒下は往来の男女が絶え間なく、さすが都のこととて馬車も多く賑やかである。石を敷いた道路を鉄輪をはめた馬車が駆けていくので、とてもうるさい。今日は副大統領が面会にやってきた。そして国会議事堂は外国人は入れないことになっているが、特別に使節を招待することに決定したと言っていた」。

三使は大歓迎に心を奪われているゆとりはなかった。小栗は<浮足立ってはいられない>と自らを戒めた。最重要な外交案件が目前に迫っているのである。

遣米使節、ホワイトハウスへ(新聞報道、筑波大学附属図書館資料)

大統領に拝謁

閏3月28日(新暦5月18日)。正午に日本使節団は大統領の引見を受けることになっていた。正使新見や副使村垣らが幕府を代表してホワイト・ハウスを正式訪問するのである。史上空前のことである。この栄誉を前に、ホテルは警備が厳重になり緊張した雰囲気に包まれた。沿道は黒山の群衆で立錐の余地もない。

日本使節団を乗せた馬車の列は、ホテルから東南に2kmほど走りホワイトハウスに到着した。馬車の列が「白亜館」に着くと、鉄の柵門が開けられ全車が敷地内に入った。官邸は四方を鉄柵で囲まれ、庭には泉水や樹木などがあり、建物は豪壮な印象を与えた。建物の入り口まで、騎兵・歩兵・従者も従った。一行は馬車を降りると入口からすぐ石の階段をのぼり、控えの間に案内された。そこは正使・副使・監察らだけの部屋であり、勘定組頭森田岡太郎ら上役の者は別室に導かれた。

廊下の左にある大広間は美麗であり、この日の応接の場所にあてられている。三使の控えの間は楕円形をしており、床には華やかな藍色の絨毯が敷いてある。四方には大きな鏡があり、その前にテーブルが置かれ日本の蒔絵(まきえ)の硯箱(すずりばこ)、料紙(用紙)、その他高価な品々が飾ってある。これらは黒船を率いたペリー提督が来日した折、幕府から寄贈された貴重品とのことであった。やがて国務長官カスが挨拶に来て退室すると、デュポン大佐とリー大佐がやって来て三使を謁見の間に案内した。両開きドアが開けられた。

謁見の間(イースト・ルーム)は200坪(1坪は3.3m2)もある広く荘厳な貴賓室で、正面に大統領ブキャナン、その右側にカス国務長官、左側には財務長官が立っており、三使は正使・副使・監察の順で謁見の間に入ると横に並んだ。そのまま2~3歩一緒に進むとまず一礼し、さらに大統領の面前まで進んで一礼した。大統領及び三使らの左右には、文官、武官、外交団、貴婦人たちが華麗な礼服に着飾って居並んでいる。

正使・新見が「先頃日米両国間で修好通商条約が結ばれ、このたび自分が条約を批准するため貴国の首都ワシントンに遣わされましたが、これより両国の友好関係がますます親密にあることを祈ります。往還に貴国の軍艦をご用意くださったことを感謝いたします」との文面を緊張した張りのある声で読み上げた。それを通詞・名村五八郎に手渡した。名村は文面をアメリカ側の通訳ポートマンに低い声で読んでやった。ポートマンは内容を英訳しブキャナン大統領に伝えた。大統領は日本使節の口上に対して「修好通商条約の批准は日米両国民に裨益(ひえき)すること大であり、きっと幸福をもたらすでありましょう」と笑顔を絶やさずに答えた。

その後、正使新見の後ろに控えていた外国奉行支配組頭・成瀬正典が国書(金粉をにかわで溶かした金泥で花鳥を描いた料紙)を持って前に進み出、新見が箱の中から国書を取り出して大統領に手渡した。正使新見が先ほどいた中央に退くと今度は勘定組頭森田や御勘定格それに御徒目付らが入室したので、三使らは彼らと入れ代わりに控えの間に戻った。儀式はつつがなく終了した。

謁見を終えた三使は控えの間で休んだ。デュポン大佐が姿を見せ「日本の礼儀はお済みか」と尋ねた。小栗が「済み申した」と答えると、「再びおいでを乞う。大統領が皆様の労をねぎらいたいとの意向である」と言う。再度謁見の間に出向くと、大統領は三使らに握手を求め「日本は鎖国以来初めて和親条約を締結し、我国に大君(たいくん)の使節を送られてきたことを、余ばかりか国民一同一方(ひとかた)ならず喜びました。厚いお言葉の趣旨、国書を賜ったことに深甚な感謝を献じます」と相好を崩してくつろいだ調子で述べた。口述したものの原文(英文)を正使新見に渡したので、新見は深々と一礼して拝受した。 

第15代アメリカ大統領ジェイムズ・ブキャナン(1791~1866)は、ペンシルヴェニア州出身で、ディッキンソン大学で法律を学んだ後軍隊に入った。除隊後、政治家となり、1857~61年までの1期大統領を務めた。

小栗らは大統領や側近たちと身近に接し、また大統領公邸、議事堂、国務省などを見聞して回りながら幕藩体制とアメリカの共和政治との優劣を考えざるを得なかった。

外交儀礼と歓迎パーティ

使節団のワシントン滞在は続く。閏3月29日(新暦5月19日)。幕府から大統領に贈答する品々をホテル内に飾り付け、目録を接待担当のデュポン大佐に手渡した。贈り物は以下の品々である。真太刀1振(ふり)、馬具1揃(そろい、鞍とあぶみは蒔絵)、掛け軸10幅(ふく、いずれも狩野・住吉両派の絵)、翠簾(すいれん、緑色のすだれ)10双、錦の幔幕(まんまく)、蒔絵の書棚、蒔絵の硯箱…。貴重な品々はホテル内の1室に3日間展示された。同夜、新見ら三使に対して国務長官ルウィス・カスの招宴があった。「日本は夜間は外出しない風習である」とアメリカ側には伝えておいたが、断り切れず正副使、小栗それに御徒目付らが正装して出掛けた。

カス長官の邸宅では廊下やロビーさらには各部屋も満員で、使節団一行はたちまち握手攻めにあった。招待客は男女数百人に及んだ。饗宴に加えてダンス・パーティも催されたが、両使や小栗らはこれにはなじめず男女の明るく踊り回る様を眺めているしかなかった。
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閏3月30日。海軍造船所の司令官が日本使節を訪ねて来て、新製品のゲベール銃(ライフル銃)を6挺ほど見せてくれた。

同日夕方4時頃、ホワイトハウスで音楽会が催されるのでご来訪を乞う、とデュポン大佐が誘うので、正使新見ら三使や上役は普段着のまま馬車に乗り出掛けた。三使は官邸のベランダに案内され、椅子に座って中庭を見下ろした。庭の中には数えきれないほどの群集がいる。庭の中央には噴水があって水を噴き上げている。赤い制服の軍楽隊がしきりに音楽を演奏している。

ブキャナン大統領が姪(めい)3人を連れて三使のもとにやって来て挨拶した。(大統領は独身であった)。そのうち大統領の姿が見えなくなった。姪の一人にハリエット・レインという27~28歳くらいの才色兼備の女性がいた。レイン嬢は副使村垣に双眼鏡を貸し与え中庭の群集の中に大統領がいるはずだから捜してごらんなさい、と勧めた。同じような服装の参加者が大勢いるのでとても見分けられるものではなかった。

小栗らが暇乞(いとまご)いをしようとすると、大統領はホワイトハウスの中を見物していけという。デュポン大佐の案内で官邸内を見て回った。2階は大統領の住居なので遠慮することにし、主に1階の謁見の間、各部屋、鴨居の上の歴代の大統領の石膏の肖像などを見て回った。

使節らは日が西に傾く頃ホテルに戻り、この日の出来事についてよもやま話をした。副使村垣は「日記」に記した。「ホワイトハウスに招かれて出掛けてみると、大勢の見物人の見世物になるし、茶やタバコも出さない。用を足したくなり、便所はどこかと聞けば、この辺にはないのでこらえてくれという。さっぱり人気のない建物の内部を案内されて帰ってきたので、キツネかタヌキに化かされたような気持であった」。村垣は不平不満が先立つのである。

見物人は連日引きも切らずホテル周辺に押しかけ、日本使節団員が窓から群衆に銅銭・錦絵・和紙・扇子などを投げ与えると先を争うように奪い合った。

4月2日、最重要な公式行事の前日である。夕方暴風雨が吹き荒れ、その後は夕晴れとなった。小栗は象徴的気象ではないか、と考えた。

批准書交換                        

4月3日。批准書交換の日であった。午後からデュポン大佐、リー大佐、レドヤード国務長官秘書官らの案内で、三使、御勘定組頭、調役、御徒目付らが普段着のまま下役を伴って馬車で国務省に赴いた。国務長官ルウィス・カスの執務室に入ると他に政府高官や書記官なども日本使節を待ち受けており、特段の儀礼もなく、カスの机の上で批准書を取り交わした。

日本側の批准書は日本語で書かれており、表紙は大和錦(唐錦をまねたもの)を紅の糸でとじている。奥書きには外国事務閣老(老中)と大君(将軍)の署名と花押(判)がついており、オランダ語訳が添えてある。それを黒塗の箱に入れ、銀の環(たまき)と紅色の紐で結び、紅綸子(べにりんず、絹織物の一種)の袱紗(ふくさ、風呂敷より小さい絹布)に包まれている。アメリカ側のものは英語で書かれていて、大統領と国務長官の署名が付いている。オランダ語訳も添えられており、綴じ糸の先を寄せて赤い封蝋(ふうろう)をし、銀の金具のついた箱に入れてある。

日米双方が条約を批准した証(あか)しとして、日本側は和文に全権・新見、村垣、小栗の3人が署名し、カス国務長官は英語の証書に署名して、互いにオランダ語訳を添えて交換した。批准書交換後、日本使節一行はいったんホテルに帰った。

大統領謁見と批准書交換という最重要の外交案件をつつがなく終わらせた後もワシントン在住の政府高官らが妻子を連れて日本人一行に面会に訪れた。一度に100人も来ることも珍しくなかった。中には商人や農民もいた。幕府高官小栗には不思議でならなかった。

77人のサムライの帰国後は、尊王攘夷の暴風の中で、不運の最期を遂げた者が少なくないことは銘記すべきことだろう。薩長藩らの国粋主義者らから「西洋かぶれ」と見なされた。小栗は薩長軍によって「問答無用」と斬殺されたのであった。

参考文献:「77人の侍アメリカに行く」(レイモンド服部)、「万延元年の遣米使節団」(宮永孝)、筑波大学附属図書館文献。

(つづく)