技監青山士(個人蔵)

事件と技監青山士

昭和11年(1936)2月26日未明、降り積もった雪を踏みしめて、陸軍大尉野中四郎ら皇道派青年将校20人に率いられた叛乱軍1400人は武装して、首相官邸、内大臣(天皇を補佐する大臣)私邸、侍従長私邸、蔵相私邸、教育総監私邸などを次々に襲った。内大臣斎藤実、蔵相高橋是清、教育総監渡辺錠太郎は殺害され、侍従長鈴木貫太郎は重傷を負った。首相岡田啓介、前内大臣牧野伸顕は危うく難を逃れた。

新聞社では、軍部の政治干渉を批判していた「東京朝日新聞(東朝)」が襲われ、夕刊の発行が不可能になった(後述)。言論活動に対する武力での直接暴力である。直ちに戒厳令が布かれた。2.26事件である。内務省技監(技術官僚最高ポスト)だった青山士(あきら)はこの皇道派青年将校の暴挙をどう見たのか。

底冷えのする雪の早朝、青山氏邸前に黒塗りの公用車が停まった。玄関のドアが激しく叩かれた。公用車の運転手は蒼ざめており吐く息が白く顔をおおった。車のフロントグラスに大きく「公用」の紙が貼られていた。霞が関の内務省ビル(旧人事院ビル)が叛乱軍に取り囲まれている中での緊急招集である。青山は公用車到着前に電話連絡を受けていた。

「とんでもないことを起こしてくれた」と吐き捨てるように言って分厚いコートに身を包み公用車に乗り込んだ。彼は非戦思想を訴えるキリスト教指導者内村鑑三の信奉者であり、自身も反戦思想の持主だった。青山は事件が鎮圧され反乱部隊が全員帰順する29日夜になって帰宅した。蒼ざめ憔悴しきった表情の青山は、「これで日本も終わりだ」と小声で妻に言うと、厚いコートを脱ぎ書斎に入った。

 ふきしまく 吹雪は一日 荒れゐたり 由々しきことの 起こりてゐたり
 大君の 兵をひきゐて 軍人(いくさびと) けさ屯(たむろ)せり 勅にそむきて
 「兵に告ぐ」と 戒厳令の 声いえど 心に徹(とおら)ざるものあり
(南原繁歌集「形相」の「二・二六事件」より。後の東大総長南原は青山の信仰の友である)。
 

軍部からマークされる

技監青山は軍部当局からマークされていた。青山を支えた技術官僚鈴木雅次は述懐する。

「内村鑑三の流れをくむ青山さんの高邁(こうまい)なヒューマニズムが2.26事件前夜にあたる軍部順応の世相に、入れられなかったのは当然である。そして内務省首脳部の一員として、反戦的と思われる言行に対し、激しい批判の起こるけはいがした。よって、先生(注:青山)が技監として発言される公の文章などにつき、事前に下見する役が第二技術課長であった私に当てられてきた。戦後の今から考えると、先生のお言葉(反戦思想)こそ、永遠の真理として正しかったのだ。それに対し時流に迎合しての浅薄な訂正を思い出すと、冷汗が出る」。

青山の具体的な反戦的言動を鈴木は記していない。青山も語っていないが、青山が横暴を極める軍部に批判的であったことは事実で、令嬢らには「人殺しをする陸軍の職業軍人や人を平気で裁く裁判官などには娘を嫁がせたくない」と語った。クリスチャンであるだけで特高警察や憲兵隊の監視の対象になったファシズムの時代である。青山の周辺は相当に当局から調査されたに違いない。とくに青山が心を痛めたのが、信仰を同じくする無教会主義クリスチャンに対する弾圧であり、反戦を訴えるキリスト教関係図書の相次ぐ発禁処分であった。弾圧の手を下したのは内務省警保局である。

「戦時下抵抗の研究―キリスト者・自由主義者の場合―」(同志社大学人文科学研究所編)によれば、無教会主義者で弾圧(出版物の発禁、発行停止、検挙、処罰など)を受けた知識人には、矢内原忠雄、藤沢武義、伊藤祐之、金沢常雄、政池仁らが挙げられている。東京帝大教授矢内原忠雄は青山の信仰上の友であった。昭和12年(1937)12月、矢内原は右翼教授陣の策動もあって辞表を提出し、大学を去らざるを得なくなった。

朝日新聞への襲撃

内務省前の叛乱軍兵士(筑波大学附属図書館資料)

「帝都に青年将校の襲撃事件、斎藤内府・渡辺教育総監、岡田首相ら即死す。高橋蔵相・鈴木侍従長負傷、非常警備の処置をとる」。

これが事件当日午後8時15分の陸軍省発表を基にした2月27日付「大朝(大阪朝日新聞)」の見出しだった。陸軍大尉野中四郎、安藤輝三、香田清貞以下、陸軍将校22人、下士官、兵1400人と西田税(みつぎ)らの右翼を動員した2.26事件では小銃、機関銃で武装した部隊が、首相官邸、斎藤実内大臣私邸など各所で閣僚・重臣などを襲った。しかし、同日夕刊による事件の報道は東京憲兵隊長から差し止められた。言論の自由は圧殺されていた。

上記の陸軍省発表には誤りがあり、「君側の奸」「統帥権干犯の賊」として襲撃された内大臣・海軍大臣斎藤実、大蔵大臣高橋是清、陸軍教育総監渡辺錠太郎は射殺され、侍従長・海軍大将鈴木貫太郎は重傷、前内大臣牧野伸顕は裏山に逃れて助かり、首相官邸で即死と伝えられた岡田首相は、実は義弟の陸軍大佐松尾伝蔵の射殺を襲撃軍が誤認していた。岡田は押し入れに隠れおおせ、27日夕、秘書官の迫水久常らに救出された。

襲撃部隊は警視庁を占拠し、主力の兵を現在の憲政記念館(元参謀本部所在地)から国会議事堂、首相官邸、赤坂見附にわたる永田町一帯に展開させた。部隊は「尊皇討奸」「昭和維新」と墨書した大畑を掲げ、兵士は軍帽の上に鉢巻きを締めて、「昭和維新の歌」といわれた「青年日本の歌」を高唱した。

同日午前8時50分頃には、首相官邸を襲撃してきた栗原安秀中尉、高橋蔵相を襲撃した中橋基明中尉の率いる下士官約60人が、軍用トラック2両と乗用車で「東京朝日新聞」本社に乗り付け、同社を包囲する態勢をとった。兵士らによると、反軍的記事を掲載する「朝日」の発行を阻止するのが目的で、社内に乱入した兵士たちは次々と活字ケースを引き出してメチャメチャにひっくり返した。

編集局長室にいた緒方竹虎主筆(最高編集責任者)が襲撃部隊の青年将校に会っており、同社「社史」は緒方の記憶をまとめている。緒方がエレベーターガールの沈着な態度に落ち着きを得て下に降りていくと、中尉の制服をつけた男が目を真っ赤に血走らせて立っており、右手にピストルを持っていた。「私が代表者だ」と名刺を渡し、無言のまましばらく対峙していたが、中尉はいきなり右手を高く上げ、天井を見ながら大声で「国賊朝日をたたきこわす」とか「やっつける」とか怒鳴った。緒方は「社内には女性や子供(原稿係の少年や見習工)もいるので出すまで待ってくれ」と言うと「すぐ出せ」というのでエレベーターに乗ろうとしたら先ほどの女の子が平気で待っていたのでまた感心した。4階の自室の机の上などを片付け、玄関まで降りると上の方でガチャンガチャンとやっている。やがて酔っぱらった兵隊が出て来てトラックに乗り出したので編集局に帰ると、叛乱軍の宣言書がはりつけてあった。例の中尉は、写真を調べると高橋蔵相を射殺して来た中橋基明だと分かった。

乱入した兵士たちは、輪転機のある印刷工場に入ろうと斧を振るったが、鉄の扉は壊せず、活字予備室には兵士たちが気付かなかった。夕刊発行には支障はなかったが、蹶起部隊を刺激しないために発行を見合わせた、という。

美土路昌一編集局長が説得して社内にいた全員が外に出た中で、電話交換手の森田キチ、岡田ふさ、岡本ふみ、矢橋なつの4人の女性は4階の電話交換室に残って外部との連絡を守り抜いた。交換室の表札をはずし、内側から鍵をかけ、外に声が漏れないよう毛布をかぶせて仕事をした。

叛乱軍の蹶起に際しての趣意書は「所謂(いわゆる)元老重臣軍閥政党等は此の国体破壊の元凶なり。倫敦(ろんどん)海軍条約並に教育総監更迭に於ける統帥権干犯、至尊兵馬大権の僭窃(せんせつ)を図りたる3月事件或は学匪共匪大逆教団等利害相結で陰謀至らざるなき等は最も著しき事例にして、其の滔天の悪罪は流血憤怒真に譬(たと)へ難き所なり」としている。

「皇道派」と「統制派」の対立

陸軍の「皇道派」と「統制派」の対立は2.26事件の前に一挙に表面化していた。天皇親政の下に元老重臣を排して国家改革を叫ぶ青年将校らの中心人物に祭り上げられていたのが、教育総監真崎甚三郎であり前陸相荒木貞夫陸軍大将だった。この真崎と林銑十郎の人事をめぐる意見対立から、昭和10年(1935)7月真崎が陸軍3重鎮の1つである教育総監を更迭され、後任総監には陸軍大将渡辺錠太郎がなった。それが、皇道派将校たちが渡辺を殺害する要因になった。

一方、皇道派に対して、林陸相が事務局長に起用した陸軍の秀才、永田鉄山を中心に、クーデターを排し、軍の統制を維持しながら政財界とも手を握って合法的に国家改造をしようとする「統制派=政策派」が軍の中心となりつつあり、東条英機や武藤章などの佐官が、永田と一緒に政策研究を続けた。

更迭されて軍事参議官となった教育総監時代の真崎は、「機関説排撃」と「国体明徴」を全陸軍に通達し、天皇機関説問題で在郷軍人を扇動したり、若い将校に機密事項を漏らしたりし、皇道派青年将校からは「救国の使命」を担う人物と目されていた。真崎が青年将校らに流した情報は、北一輝に師事した西田税たちの新聞「大眼目」に怪文書となって現れた。「天皇機関説を実行し皇軍を撹乱し維新を阻止し、国家壟断、国体破壊を強行せんとする陰謀」が、真崎更迭であり、その背後に統制派の黒幕、永田鉄山がいるというのだった。こうした文書に刺激されて8月12日、福山連隊付の相沢三郎中佐は、陸軍省軍務局長室に侵入し、「天誅!」と叫んで永田を刺殺した。叛乱軍の青年将校たちは愛国的行動として相沢に拍手を送った。林陸相は事件の責任を負って辞職し、後任には中立派といわれる川島義之大将が就任した。

「東朝」は9月5日付社説「陸軍大臣の更迭」で「陸相の進退に関し、軍事費の負担者たる国民が何等の発言権を持たず、またその発言を可能ならしむるに足る判断材料から一切遮断されねばならない理由はない」「国民が等しく念願切望するところは、林陸相の引退が断じて其主義方針の引退を意味しない事である」と、「統制派」支持、「皇道派」批判の論調を強めていた。

当時、侍従武官長を務めていた陸軍大将本庄繁の28日付「日記」には、本庄が軍事参議官代表荒木貞夫大将を武官長室に招き「此(こ)の不祥事を速やかに鎮定せよ」との「陛下の御意図」を伝え、「其の御心中」を述べている。「此れこそ武士道に反せずや、陸軍の云う所、解し難し」。

28日午後5時8分、三宅坂付近の叛乱将校以下は各所属部隊に復帰すべし、との戒厳令司令官の奉勅命令が出されており、真崎も天皇の真意を知って豹変し、「錦の御旗に弓引くものは自分が一線に立って攻撃する」と叛乱軍に伝えた。29日朝、山王下・三宅坂に叛乱軍の抵抗線は敷かれたものの「軍旗に手向かうな」と大書した戦車を先頭に戒厳部隊が包囲し、抵抗することなく帰順した。飛行機からの投稿勧告文「今からでも遅くないから原隊へ帰れ・・・」は、同司令部の頼みで「東朝」が5万枚刷り効果を生んだ。

事件は7月5日、第1次判決が下り、青年将校ら17人が死刑となって1週間後に執行された。真崎も裁判にかけられたが、昭和12年(1937)9月無罪となっている。

その後、ナチス・ドイツが呼号した欧州新秩序に呼応して、アジアに一大共栄圏を樹立する構想を描いた武藤章や東条英機の統制派は、やがて国政を左右して日本を太平洋戦争という破滅の渕に追い込んでいくのである。ところで、東京高等師範(現筑波大学)校長をつとめた講道館館長嘉納治五郎は、陸軍当局が「叛乱軍鎮圧部隊(戒厳令部隊)の前線駐屯所として、都心の講道館本館や宿泊施設を開放せよ」と迫ってきたのに対し、「講道館は柔道鍛錬のために国民に開かれているのであり、軍部には開かれていない」とがんとして拒否を続けた。結局、軍部は講道館の使用を断念した。教育家嘉納の平和主義は徹底していた。

参考文献:拙書『技師青山士』、『「言論の死」まで、「朝日新聞社史ノート」』(坂本龍彦)、講道館文献、筑波大学附属図書館資料。

(つづく)