嘉納治五郎(東京高等師範校長、講道館蔵)

柔道創始者は教育者

本連載では嘉納治五郎(1860~1938)をすでに数回にわたって取り上げてきた。嘉納の高潔な精神に魅かれるからである。嘉納の略歴を改めて記せば、講道館柔道の創始者であり、学習院教頭をはじめ、第五高等中学(現熊本大学)・第一高等学校(現東京大学)・高等師範学校(東京教育大学を経て現筑波大学)の校長を歴任した、教育者であった。教育を「天職」とする知識人であった。

■日本オリンピックの父・講道館創設者、嘉納治五郎~その大いなる精神と実践~
http://www.risktaisaku.com/articles/-/6005

■講道館柔道の祖・嘉納治五郎・再説~その国際感覚と徹底した平和主義~
http://www.risktaisaku.com/articles/-/8946

■「黎明の鐘」となれ!~<日本マラソンの父>金栗四三と恩師・嘉納治五郎~
https://www.risktaisaku.com/articles/-/10796

■教育家・嘉納治五郎の信念
https://www.risktaisaku.com/articles/-/16622

同時に文部省高級官僚、大日本体育協会会長、日本初(東洋でも初の)国際オリンピック委員会(IOC)委員、そして日中戦争により幻となった1940年東京オリンピック招致もあった。貴族院議員、哲学者…。軍国主義が跋扈(ばっこ)する中で、戦前の日中友好に教育者の立場から大きな足跡を残したことも特筆すべきことだろう。自費を投じて中国人留学生の教育を支援したのである。

その高邁な平和を希求する精神(モラル・バックボーン)に「精力善用」「自他共栄」があることは周知の事実だ。嘉納の関東大震災復興とスポーツ精神を汲み入れた都市計画づくりへの挑戦を考えてみたい。そこにも「自他共栄」の精神が反映されているはずである。以下、「嘉納治五郎」(筑波大学教授真田久)を参考にし、一部引用する。同書は一読に値する良書である。

関東大震災と嘉納の対応

大正12年(1923)9月1日午前11時58分、神奈川県相模湾北部を震源とするマグニチュード7.9の巨大地震が発生。激震が東京・横浜を直撃した。昼時だったため、各家庭では火を使って昼食の準備をしていた。地震発生直後から横浜や東京下町を中心に各地で火災が発生し、東京市(当時)と横浜市の死者・行方不明者は10万5000人にも上った。震災は関東各地にも及んだ。被害総額は、当時の国家予算の1年4カ月分にものぼった。デマに煽られた自警団らによる朝鮮人・社会主義者虐殺も忘れてはなるまい。

震災当日、嘉納治五郎は樺太(サハリン)に出張中だった。柔道や講道館文化会の活動の最中だったが、急いで帰京した。彼は講道館をすぐさま開放して被災者を収容している。講道館門弟の富田常次郎(東京高等師範学校の柔道教師)が自宅の倒壊により下敷きになったものの、自力でがれきから脱出しことなきを得た。

この大惨事に対し、大日本体育協会(嘉納創設、本部は東京高等師範学校校長室)は、9月30日に帝国ホテルで理事会と常務委員会を開き、嘉納名誉会長を座長として次のことを決議した。

1.全日本選手権競技会の件。
大震災後復興に全力を尽くすべき時に国民の士気を鼓舞するため、最も質素に東京において11月中に選手権大会を開く。
2.国際オリンピック大会に代表選手を派遣すること。
明年の夏、パリにて第8回国際オリンピック大会が開催されるについて、万難を排して特に優秀なる競技者及び指導者を選考して派遣すること。この決定に従って今秋第1次予選競技会を行い、明春4月中旬第2次予選会を東京にて開催すること。
3.本会を財団組織となすこと。
三井、三菱及び岸会長等の出資を基本として財団法人を組織すること。
4.雑誌は休刊、年度発行を見合わせること。
(具体的内容省略)
5.新東京に計画中の公園内に競技場設備を建議すること。
復興事業中に運動競技の諸設備を加えること並びに右に関して本会より推薦する役員を計画委員に加えることを建議する。
6.(省略)

1、2、5がスポーツによる復興に関する内容だ。これに基づいて翌10月1日、「第8回国際オリンピック大会参加」の宣言文を大日本体育協会は発表する。

そこには、「翌年7月にパリ・オリンピックに選手を送る計画はすでに一般に知られているところであり、大震災によってこの計画を放棄するのは遺憾だ」「スポーツ界の将来の発展のため、特に優秀な選手と指導者に限って派遣したい」と書かれてる(日本体育協会編「日本体育協会五十年史」)。

「それまで積み上げてきたスポーツ界の進歩を止めるべきではない」「海外に日本国民の復興の意気を示す」という観点から、震災直後のオリンピックへの選手派遣は決定された。嘉納の主導で大日本体育協会が発表したこれらの提案は、果たしてそのまま実行されただろうか。結論から言うと、すべて実行されたのである。(真田教授の指摘)。

隅田公園(現在)

大震災直後の3大スポーツ公園造営

関東大震災の直後、前東京市長だった後藤新平は帝都復興院総裁(後に復興局総裁)として、広範な復興計画を立てている。後藤が見積もった予算は大幅に縮減されたものの、計画に沿って大小の公園が新設されることになった。最終的な東京復興公園計画は1924年12月の臨時議会で承認され、浜町公園や隅田公園、錦糸公園が造成されることになった。併せて、東京市に52の小公園が造成されることが決まっている。東京市に設けられた52の小公園は、近隣住民用の公園機能を持つ。また近隣する小学校校庭の延長として、時に児童の運動場や遊び場になった。

3大公園(浜町公園、隅田公園、錦糸公園)は、ヨーロッパで都市計画や公園事業について学んだ経験があり、復興局建設部公園課長を務めていた折下吉延の指揮のもとで造られた。折下は明治神宮造営局技師を務めた経歴があり、外苑の運動施設の建設にもかかわっている。その時の経験が生かされた。

3大公園に共通した特徴は、従来の公園に見られなかった大規模運動施設(プール、陸上競技場、野球場、テニスコートなど)を設けたことだ。芝生地を多くとり、近隣住民はもちろんのこと、全市民も利用できるレクリエーション中心の公園になった。また遊具をたくさん設置し、児童公園としても充実させた。

中でも、隅田公園は大規模なウォターフロント(海・川・湖などに面する水辺立地)を実現した日本初の公園だ。緑地の広がる公園は、平時にはレジャーとして、緊急時には避難場として使用できるようにした。面積は5万2700坪(17万4200平方メートル)と、全国の公園の中でも最大だ。完成は1931年だった。公園内にはボートレースの観覧席を設け、プールやテニスコート、児童公園が設置された。

すでに大震災前から、嘉納治五郎の提案によって明治神宮外苑競技場の建設が進められていた。外苑競技場を陸上スポーツのシンボルとし、復興3大公園と合わせてスポーツの振興を図ろうとした。復興3大公園のうち、最も早く完成したのは錦糸公園だった。同公園は1928年7月18日に開園し、同年12月に復興局から東京市に移管された。東京施行の小公園で最も早く開園したのは、1926年8月開園の月島第二公園、最後に開園したは1931年4月開園の蛎殻町公園他6公園だった。東京復興556公園の事業が全て終了したのは1931年だった。これ等の公園は老若男女すべてを対象として造られたスポーツ公園でもあった。

震災復興の理念、禍を転じて…

嘉納の震災復興の理念とは、どのようなものだったのだろうか。また、嘉納の震災復興の理念と体育やスポーツの発展は、どのように関係するのだろうか。

関東大震災の直後、雑誌「柔道」に掲載された巻頭言「禍を転じて福とせよ」で、嘉納は<今日こそ国民挙げて大なる決心を以て立つに最好の機会である>と以下のように述べている。

<被災者に対する救援、慰問は当然であるが、子どもの教育と同じように、万事が順調に進んで苦労することが少なくなれば、精神がゆるみ、怠惰になりぜいたくを求めるようになってしまう。日本は明治維新以来、外国の文化を輸入してうまく自分たちのものにし、順調に進んできた。内には制度を改め、教育を普及し産業を興し、貿易も発展させてきたので、至る所に油断や自己中心主義が広がりつつある。今回の大震災を、日本人の将来のためになるように考えねばならない。そのためには、自他共栄の考えを国内および対外方針として国力を充実しなければならない。そうすることで、世界各国から尊敬され、信頼される国になる。今後わが国民は、わが国をかくの如き位置に進めようということを理想とすべきである。>(「柔道」第2巻第9号、1923年)>

嘉納は、個人にあっても、国家にあっても、自国や自身のためのみの行動ではなく、他に尽くす生き方へ転換すべきだと主張した。大震災前年の1922年、嘉納は講道館文化会を設立し、「精神善用・自他共栄」の考え、つまり「他者に尽くしてこそ自己完成がなされ、それにより社会や国を発展させられる」との綱領を発表している。

<外国人の中には、わが国はこういう災害にあったら必ず混乱状態に陥るであろうと予想していた向きもあったようだが、実際冷静に、この災厄を乗り越えつつある模様を見て、さすが日本人だ、既往の修養が然らしむのであろうと、賞嘆している>

日本人は大震災を乗り越え、必ず復興できると嘉納は確信していた。

ところで教育者嘉納のヒューマニズムを伝える障害児教育への実践を紹介しよう。

東京高等師範学校付属小学校の校長を兼務する嘉納は、同小学校に特別学級を全国に先駆けて設置し、中でも体育教育を重視するのである。

文部省は、1907年に訓令を出して、師範学校に盲・聾唖(ろうあ)児や心身発育不全児の特別学級を設置し、その教育方針の研究を奨励することとした。これを受けて、嘉納が校長を務める東京高等師範学校付属小学校でも、直ちにその研究が始められた。校長嘉納、主事(樋口長市)、訓導(小林佐源治)の3者が外国文献などを収集し、共通の理解に立って進められた。同校では1908年には知的障害のある生徒のための特別学級を設置し、自由な遊戯やスポーツなどを入れた体育に力を入れた。知識だけを身につけさせるのみでなく、障害があっても社会で自立して生きていける人間の育成を目指した。この教育は長く続けられ、障害児教育における体育・スポーツの研究が進んだ。障害のある人々にも体育・スポーツの効果があることを示したのだ。有能な人材も輩出した。

研究は嘉納が校長を辞した後も続けられ、現在、5校ある筑波大学附属支援学校に嘉納精神が受け継げられている。

参考文献:「嘉納治五郎」(講道館)、「嘉納治五郎」(真田久)、日本体育協会編「日本体育協会五十年史」、講道館及び筑波大学附属図書館資料。

(つづく)