ファン・ドールン像(猪苗代湖畔)

お雇い技師ファン・ドールン・来日

ファン・ドールンの銅像(本山白雲作)が福島県の猪苗代湖北西湖畔の日橋川・十六橋の傍らに湖面を見つめて立っている。この立像は明治初期にお雇外国人として招へいされたオランダ人技師中で最初に建立された。80年以上を経過した今日も、銅像の発する威光はいささかも衰えを見せていない。第二次世界大戦の最中、銅像が政府の命令で金属供出にさらされそうになった際、地元の農民等が銅像を足元から切り離して地中に隠し、戦後になって再び台座に納めた。戦時中の勇気ある行為はよく知られた逸話だが、安積疏水(あさかそすい)の恩恵を受ける地元民のドールンに対する敬愛の念をあらためて伝える。

一方、ドールンが設計施工を指導した宮城県の野蒜(のびる)築港は大型台風の直撃を受けて無残にも崩壊し再建計画も立たないまま放置された。見捨てられたのである。お雇い外国人技師の限界であった。
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明治5年(1872)2月16日(西暦3月24日)、オランダからファン・ドールンが明治政府お雇の長工師(技師長)として、陸軍工兵士官アイザック・アン・リンドーを伴って来日した。上海~長崎~横浜の航路を使っての初来日であった。

24歳の若い技師リンドーはドールンを補佐し、特に水位基準点設置やオランダ式水制工(治水工法)の典型例である粗朶工(そだこう)の紹介・導入に功績があった。二人の任期は3年間であった。ドールンは、その後任期が延長される。明治6年(1873)、内務省が設置され、土木寮は内務省に移り、初代内務卿は薩長閥の雄、大久保利通であった。それを機に技術者ドールンと大久保の親密な関係が始まる。

内務省がお雇外国人として招聘した河川工学の技術者10人全員がオランダ人であった。お雇い技師の大半が英仏人であったなかで、このことは注目に値する。その中で最高位の長工師であったドールンは、これら全オランダ人技術者の人選や統括をする立場にあった。10人の氏名、資格、生没年などを以下に記す。

・長工師:ファン・ドールン、Cornelis Johannes van Doorn、初任給500円、1837~1906
・ 一等工師:エッセル、George Arnold Escher、初任給450円、 1843~1939
・ 同上:ムルデル、A.T.L.Rouwenhorst Mulder、初任給475円、1848~1901
・ 二等工師:リンドー、I.A.Lindo、初任給400円、1848~1941
・ 三等工師:チッセン、A.Th.J.H.Thissen、初任給350円、1843~78
・ 四等工師:デレーケ、Johannis de Rijke、初任給300円、1842~1913
・ 工手(粗朶工):ウェストルウィール、J.N.Westerwiel、初任給100円、1840~1924
・ 同上(石工、粗朶工):カリス、J.Kalis、初任給100円、1833~96
・ 同上(粗朶工):アルンスト、D.Arnst、初任給100円、1843~86
・ 同上(粗朶工):ファン・マストリクト、A.van Mastrigt、初任給100円、1845~1912
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「長工師」、「工師」の肩書きはオランダ語の「hoofdingenieur」「ingenieur」に相応するものとして考案された。それらは特に外国人技術者のために考案されたもので、日本人技術官僚にそれらの肩書きは与えられていない。(10人のオランダ人技術者の大半は、契約期間を勤め、明治10年代後半に帰国した。デレーケのみが明治34年(1901)までの29年間も滞日し、治水・砂防・護岸などの指導に顕著な貢献をしたことは特筆に価する)。

大久保の東北振興策とビッグプロジェクト

オランダ人技師ファン・ドールン(来日時)

「征韓論」をめぐって盟友の西郷隆盛が下野した後、44歳の大久保は政府の最高実力者となった。彼は、難問山積の国家を建て直すため「参議・諸省卿兼任(参議が大臣を兼任)ノ原則」を打ち出し、政府方針と行政との統一を求めた。明治6年11月10日、内務省の初代内務卿に就任した。内務省には、勧業寮、警保寮(以上一等寮)、戸籍寮、逓信寮、土木寮、地理寮(以上二等寮)、測量司、記録課、庶務課が設置された。

内務卿は、天皇への直接責任を負うことで他の閣僚よりも一段高く位置付けられ、実質的には内閣総理大臣であった。勧業、警保二寮が一等寮とされたのは、内務省の主要任務を物語るもので、前者は殖産興業の総元締めであり、後者は全国警察行政の中枢であった。

大久保は戊辰戦争以降、決定的打撃を受け貧困にあえぐ東北地方の殖産興業・開拓開墾を優先させる立場を取った。不平士族への授産対策も背景の一つにあった。そこで彼は明治天皇の東北巡幸を発案した。明治天皇の東北巡幸は、近畿・中国地方への第一回巡幸に続く第二回目のものであり、明治9年(1876)6~7月にかけて50日間及ぶものであった。
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明治天皇は、6月2日皇居を出発した。随行は右大臣岩倉具視、顧問木戸孝允、宮内卿徳大寺実則(さだのり)をはじめ230人にものぼった。内務卿大久保は、東北各県の産業視察をかねたため、5月23日に先発し仙台で一行と合流することになっていた。

大久保は、巡幸一行とはしばしば別行動をとって東北各県の産業経済事情をつぶさに調べた。精力的な現地視察から得た東北開発の構想は、翌10年(1877)3月に右大臣三条実美に建議した「一般殖産及華士族授産ノ儀ニ付伺」や、11年(1878)の「原野開墾ノ儀ニ付伺」の中によく示されている。

これらの中で大久保は、開墾移住、地方固有物産の保護改良、運輸の整備、新産業の進展などの諸事業を具体的に提示した。

「一般殖産及華士族授産ノ儀ニ付伺」で、大久保は壮大な東北開発計画を打ち出した。それは野蒜築港、新潟港改修、越後・上野間運輸路・開削、茨城県の北浦と涸沼(ひぬま)を結ぶ大谷川運河・開削、那珂湊改修、阿武隈川改修、印旛沼を東京湾に結ぶ水路開削の七大プロジェクトであった。

計画の主体は、仙台湾に予定される国際港・野蒜港を起点として北上川、阿武隈川、那珂湊、大谷川運河、北浦、利根川、印旛沼、東京湾と連絡する一大運輸網(水路網)と阿武隈川、安積疏水、猪苗代湖、阿賀野川、新潟港の太平洋側・日本海側を結ぶ大運河を構想していたもので、「白河以北一山百文」とさげすまされていた東北地方の近代化を一気に目指す壮大なスケールのプロジェクトであった。大久保の七大プロジェクトは低水工事と港湾工事が主力であり、河川・港湾工学を専門とする長工師ファン・ドールンは大久保の遠大な構想(ビッグ・プロジェクト)を実現するために来日したようなものであった。

だが、この建議から間もない明治11年5月14日、大久保は私邸近くの東京・紀尾井坂で石川県士族島田一郎ら六人の兇徒に襲われ横死した。享年49歳。この朝大久保は私邸で福島県から陳情に訪れた地元代表と面会し、安積疏水に関する相談を受けたとされる。

大久保の掲げた東北振興策の大半が水泡に帰した。外国人技術者の限界を示すものといえるが、そのうちの一大成功例が安積疏水である(安積疏水は琵琶湖疏水、那須疏水とともに明治期の3大疏水計画である)。

ファン・ドールン墓(アムステルダム市内墓地)

ファン・ドールンと安積疏水の成功

大久保の非業の死後を継いだ内務卿伊藤博文は福島県の安積疏水計画について大久保の遺志を最大限尊重し、伊藤の後を受けて内務卿となった松方正義に計画のすべてを担当させた。松方はファン・ドールンに疏水の設計を命じ、これを受けてドールンは明治11年1月現地郡山に入り調査報告を受けた。翌12年(1879)1月5日、彼は設計を完了して、詳細な計画書「猪苗代湖疏水工事調査復命書」(政府翻訳官熱海貞爾訳)を、内務省土木局長石井省一郎に提出した。同年10月、工事はこの計画書に基づいて早くも開始された。

安積疎水計画は、ファン・ドールンの日本での代表的業績のひとつである。その原点が「復命書」である。この猪苗代湖・疎水工事計画書は四章からなり、いずれも施設計画の基本的な緒元を計算した根拠を示している。この内、後の農業水利計画にひとつの標準的な手法として採用された所要水量算定に注目しなければならない。この所要水量算定法について、彼は第一章「所要ノ水量ヲ定ム事」で、水田一町の所要水量を、世界各地(オランダ領東インド、イギリス領インド、エジプト、イタリア、スペイン)の実例をあげて比較検討している。所要水量は地質によって多寡があると述べ、良好な粘土質の水田は少なく、砂質の水田、ことに下層に砂礫化があると多量の水が必要だと指摘している。

しかし彼は、この基本式を元に安積原野で数値を測定して計画を作っている訳ではない。安積原野での所要水量の算定考え方をまとめると次の4点である。第1に、緯度を他国と比べている。これは気温についての比較である。第2に、スペインでは夏の間全く雨が降らないのに対して、ここでは5~6月は少ないながらも定期的に雨が降り、8月も湿潤のため蒸発散が少ないとしている。第3に、福島県の水田の土質は、良好の粘土からなっていて浸透量は多くないとしている。第4に、日本の水田では、高いところの田で使われた水がまた低いところで用いられるとの反復利用が指摘され、以上を総合するとスペインで用いられている数値(毎町毎秒時尺立方七勺)で十分としている。

彼が世界各地の水田用水量のデータを保有していたことに注目したい。オランダの植民地経営にとって、水田灌漑に関する技術とデータの蓄積は特に重視されたに違いない。これらの貴重な情報をもとに、ドールンは安積原野の所要水量を見積もったのである。彼の現地調査にあたっては、奈良原繁、南一郎平ら政府官僚(事務官)の「抜群ナル助」があったと彼自身も感謝している。日本人技術者による現地調査が相当なところまで進められていたと思われる。
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政府は、明治12年10月、ドールンの設計に従って安積疏水事業を起工し3年後の明治15年(1882)10月に完了した。水路の幹線52キロ、水路78キロの一大工事であり、延べ85万人が動員された。11月1日に郡山・開成山大神宮で通水式が盛大に挙行された。右大臣岩倉具視ら政府要人が出席し、国家的大プロジェクトの成就を祝った。当初「安積三万石」と見下されていたコメ生産額は昭和15年(1940)には「20万石」にも達した。

昭和6年(1931)10月14日、ドールンの功績を讃えて猪苗代湖の北西湖畔の十六橋・橋頭に、高さ8尺(2メートル40センチ強)のファン・ドールン像が建立された。数千人の参会者が見守る中、銅像の除幕式が行われた。銅像の考案製作者は本山白雲で、銅像の背面には文学博士竹越与三郎(三叉)の撰による碑文が刻まれている。

「安積碑文」の一部を引用する(原文カタカナ。現代語表記とし句読点を適宜付す)。
「人生は短きも事業は長きこと実にファン・ドールン君に於いて之を見る。君名はコルネリス・ヨハンネス、千八百三十七年和蘭ハル邑(むら)に於いて牧師の家に生れ、完全なる技術教育を受け、幾多の職務に於いて実験を積み令名あり。維新の後、政府全力を殖産興業、治水・築港に注ぐ。明治五年君聘せられて内務省土木局の長工師に任じ数人の部下を率えて来朝し、利根川・信濃川・淀川等の改修、大阪・仙台湾等の築港に関して計画を立て、工事を監督して大いに成績を挙げ、治水事業の基礎を確立す」
「九年内務卿大久保利通、福島県安積地方一帯の原野に猪苗代湖の水を澆(そそ)ぎて新田を起し、失業士族衣食の道を開かんと欲し其事業を君に命ず。君親しく山野を跋(ふ)み藪沢を渉(わた)り、水量を測り、風雨に由る変化を察し、疎水墾田の実行を得べきを見、設計拝命書を呈す。政府即ち其計画に基き十二年十月工を起し、十五年十月完成し東北を初め数県の士族を移して耕食せしむ。之より地方の生意勃然として盛んに政治上の妖気亦為に薄らぐ。唯君が十三年職を辞して本国に還り、親しく其完成を見ざりしを遺憾とするのみ。君人品醇厚にして懇切、深く日本を愛して後来のために謀る所多きを以て、人皆之を愛惜す。朝廷君が積年の功に賞して勲四等に叙し、旭日小綬章を授く。君終生婚せず、千九百六年アムステルダムに没す」
「安積疎水普通水利組合及び土木学会の賛同を得て、茲に君の銅像を建つ。像は遠岫(えんしゅう)近樹湖光島影と相点綴(てんてい)して一幅の書図を作す。君の流風之より山の如く高く水の如く長からん
昭和六年十月 貴族院議員正四位勲二等 竹越与三郎撰 正三位勲三等 杉渓言長書」

安積疏水は、会津盆地における既得水利権を侵さないように特に留意している。これは特筆に値する。湖水の水位変化が長年にわたって観測された結果、大正4年(1915)、猪苗代湖水力発電の事業が実現した。猪苗代第一発電所から遠く東京都心までの220キロに115キロボルトの当時世界でも最高の電圧による長距離送電が行われた。日本の電力開発史上画期的な成果といえる。

参考文献:拙文「ファン・ドールン研究」、「日蘭学会会誌」(第9巻、第2号、高橋裕論文)、筑波大学附属図書館資料。

(つづく)