青年技師・青山士(パナマ運河時代)

戦前の内務省土木局を代表する技師(技術官僚)の一人、青山士の生涯を簡単にスケッチしてみよう。青山は現在の静岡県磐田市に生まれ、東京帝国大学工学部卒業と同時にアメリカに渡り、パナマ運河開削工事に唯一の日本人土木技師として従事した。その技術力や人格はアメリカ技術陣からも高く評価された。7年半従事した後、帰国し内務省技師となった。荒川放水路開削(東京都)、鬼怒川治水事業(茨城県など)、大河津分水改修工事(新潟県)などの大事業を手掛けた。その後内務省技監(技術官僚最高ポスト)、土木学会会長を務めた。青年時代に無教会主義クリスチャンの内村鑑三の影響を受け土木事業に天職を見出した。終生、無教会主義のクリスチャンであった。

青山の晩年と他界について考えてみたい。

晩年の質素な暮らし

長き日や 食うや食わずの 池の亀

定年退官後、青山が知人宛ての手紙などに引用した小林一茶(1763~1827)の句である。青山は一茶の俳句を愛誦した。滑稽な表現の中に、弱者への同情と人間味あふれる俳風を好んだ。

昭和22年(1947)連合国軍総司令部(GHQ)のホイットニー民政局長(准将)は、「内務省の分限化に関する指令」を終戦連絡事務所に提示した。その後曲折を経て、内務省はこの年12月末解体された。この年秋、大型台風カスリーン台風(米軍命名)に直撃により、利根川と北上川の流域では大洪水が発生し、死者行方不明者1930人に上り(資料によって数字が異なる)、特に利根川は埼玉県内で堤防が決壊し、同県平野部から東京都東部低地に至る広大な地域が泥水に沈んだ。秋の収穫期に農民はすべてを失った。利根川の決壊した堤防の復旧には日本の災害史上でもまれな70日間に及ぶ仮締め切り工事が行われた。この大水害のため、隠居に近い生活を送っていた青山は、昭和24年(1949)から建設省(当時)の荒川計画高水量検討委員会の座長となり、都市河川・荒川の洪水防止策を練り直す。

久しぶりに荒川の堤防を歩いた青山は、短歌を詠んだ。

よしきりの 声も懐(なつか)し 蔦蔓(つたかづら) 汗し掘りにし 荒川の岸

3000の河川を見守る人

女性向け月刊誌「新女苑」(昭和23年9月号)は作家竹森一男の青山訪問記「治水の父―3000の河川を見守る人―」を掲載した。第一章「彼の生涯は川との戦であった」で竹森は書く。

「日本の治水の父といわれる青山士(あきら)氏は、茶室風の書斎にすわって、竹垣に囲まれた十坪の菜園をじっと見つめている。生涯、川を愛し、川とたたかってきた歴史が、71歳の老翁のひとみに一瞬火花のように映るのである。50年というもの、此処、静岡県磐田市中泉御殿の家をはなれて、さすらいにも似た全国の河川を戦場とした生涯は終わりをつげた。いまは、やすらかな命の灯を、魂のふるさとにともして、日々うつろいゆく世界の荒波をみつめながら、父の残した古蒼な小庵にみちたりた余生を送っているのである。たずねてくる人もない。すでに白髪をいただくまで、ながい生涯を相共に歩んできた妻と、まだ幼い、中学生の長男との、つつましい身にしむ孤寂の生活である。三人の娘は、それぞれ音楽を求めて、嫁いでいった。道路ひとつへだてた寺院には、青山氏自身の墓碑銘がしずかに待っている。しかし彼は生きている。また、たとえ神が彼の魂を召すことがあっても、永遠をつらぬくきよき一すじの川の流れは、日本の治水の道を守るにちがいない」
「それまで青山氏は生きねばならない。インフレの波涛は彼の余生をおびやかしている。わずかな恩給をのり越えてひしめく生活苦は一歩も退こうとしない。治水の父は、たれも知らないところで、生活の波に呑まれようとしている。生あるかぎり、生きのび、じっと日本のゆくすえを追い、治水対策にやさしい眼をそそぐのである」
「ふりつづく初秋の雨にぬれそよぐ竹藪と菜園から、遠くはるかに想いを全国大小3000の河川に走らせ濁流にひしめく脆弱な堤防に愁いの眉をひそめる。若ければとんでいきたい。日本の河川は、山林の乱伐と治水の荒廃によって危険にさらされている」
「彼の生涯は川との戦いであった。川に憑かれていた。川を愛していた。さかまく濁流にずぶぬれになって、わめきたてる若い自分のすがたが莞爾(かんじ)として芝の美しい築堤に立って清流をみつめている。ジャングル地帯の測量。そして広大なパナマ運河の開削に従事している青年の弾力にとんだ日焼けした顔が浮かんだ。つば広の中折に白いワイシャツ、乗馬ズボンをきりりとはいて肩から円い水筒を吊りながら、ガトウン閘門の測量にあたっている」

竹森のインタビューに答えて青山は言う。

「治水にはいろいろと問題がるとしても、まず人の心を治めることだ。すぐれた先覚者たちの足跡がもうあとを絶ったとは思われぬ。今も民族の同じ血が受け継がれ流れているはずだ。そして流れるだろう」

人類の福祉増進のため

戦後のインフレは、物不足はすさまじく、恩給生活者青山の生活は、内務技監まで務めた技術官僚の老後にしては貧しすぎた。内務省時代の後輩たちが心配して、静岡県総合開発審議委員会委員にしてわずかながらも生活費を確保させた。青山の助言は的確で、批判めいたことや不平ひとつ言わなかった。青山は富士山の大沢崩れ対策なども手掛けた。

「生きる限り仕事をする。仕事が出来なくなった時、その時が自分の死ぬ時である」。恩師廣井勇の言葉であり、若い技師青山士への助言でもあった。

「土木学会誌」新春号・昭和24年1月号のアンケート調査に答えている(「新春寸言録」より)。青山は71歳である。

一、 今年やりたいと思うこと、やって欲しいと思うこと。
二、 最近読まれた図書の感想。
三、 今まで最も思い出となった仕事について。

青山の回答。
一、 土木技術に対する認識と尊重と協力とをより広く社会に呼びかけ求めて、人類福祉の増進に尽くされん様に、又自らも尽くしたいと存じます。
二、 東京「理想社出版部」、The Epic of America by J.T.Adamsの木下松代、原田のぶ子さん達によって訳されたる米国史。北米合衆国の現在世界に重きをなして居る所以。民主主義政治の起源。米人の闘志を感激す。
三、 中央アメリカパナマ運河工事。其工事に一九〇四年から一九一一年迄、従事し、帰朝後今に至る迄(戦争中は中絶)二人の米国人同労者(Co-worker) と音信を交わして居ること。(元内務技監)。

青山は昭和25年(1950)に土木学会名誉会員に推挙された。時折、東京の雑誌社からパナマ時代や内務省時代の思い出話についてインビュー取材の依頼があった。

「私の技術者人生と言われても話すことはないな」と照れたように笑ったが、取材は拒まなかった。青山は晩年に至るまで読書家だった。「聖書」「内村鑑三全集」「唐詩選」「寒山詩」「シュバイツアー全集」「吉川英治全集」、パナマ運河関連英文図書を読み、郷里の野山や河川を散策する暮らしぶりは清貧である。「シュバイツアー全集」は内村鑑三の助言もあって愛読していた。シュバイツアー博士(1875~1965)は、現在のアフリカ・ガボン共和国に属する熱帯の地ランバレネに病院を建て医療福祉活動に長年従事した。”Example is leadership!”. (自ら行動で示すことがリーダーシップである)。青山が愛唱したノーベル平和賞受賞者シュバイツアーの言葉である。

内村はシュバイツアーの医療伝道に感銘を受け献金をしている。「余は如何にして基督教徒となりし乎」などのドイツ語訳を読んでいて、両者の間に手紙の交換が行われるようになった。昭和2年(1927)にはシュバイツアー後援会を設けて医療伝道を積極支援した。当時、聖書研究会会員だった野村実は医師となった後、ランバレネの病院でシュバイツアーを助けて働くことになる。熱帯雨林のジャングル生活を体験した青山はアルベルト・シュバイツアー著「水と原生林のはざまで」を繰り返し読んだ。

昭和28年(1953)秋、建設省東北地方建設局(当時)管内で河川の視察をした後、月刊誌「建設東北」のアンケート調査に応じている。問いは「東北地方建設局に望むこと」である。「正しく強く生きる事の人格の陶冶(とうや)により、社会人として、又建設方面における規範を示されること」。75歳の青山が後輩技師たちに投げかけた「遺言」である。

昭和29年(1954)10月、青山は土木学会創立40周年記念式典に修出席し即興の短歌を披露した。

木を植えて 土かうここに 四十年 学び会ふては 弥栄を祈る

児童図書の相次ぐ発刊

昭和30年代に入って、「隠れた偉人・技師青山士」を取りあげた児童図書が相次いで刊行された。

・「放水路をつくったなかま~縁の下の力もち~」(「ことわざ物語 五年生」(昭和31年、実業之日本社刊)。

同書から一部を引用する。

「東京に荒川放水路というのがある。荒川は江戸時代から明治末期にいたる三百年余りの間に百十三回の洪水があり、そのたびに江戸市中は泥水の海になったと記録されている。
また明治四十三年(1910)の八月、台風のために荒川の堤防がきれ、それに利根川がはんらんし、泥水は上野の山下までひたしてしまった。浅草など、腰までつかる泥水の海になったそうである。
それが大正十三年(1924)に荒川に放水路が完成してからというもの、現在まで三十年あまりの間、東京を洪水から守ってきている。利根川は戦後たびたびはんらんしているが、荒川という名前さえわすれてしまうほど洪水をおこしたことがないんである。
荒川放水路工事の最中、大雨の中を、着物のすそをはしょった五六人の人が、堤防づたいに歩いてきた。
「こんな雨の中をいったいどこへいくのですか。」
と、工事現場にいた工夫がたずねると、
「いやおどろきましたよ。こんな大雨がふりつづくのに、ことしにかぎってどうして水が出ないのかと、わざわざ川上までのぼってきてみたのです。水が出ないはずですね。こんな工事をやっているのだから。」
大水が出ないのをふしぎがって、雨の中を川上へ歩いてくる人ものんきなものだが、まったく当時の東京には、荒川が洪水にならないのは、大きなふしぎと思えたほどである。
このように、まい年のようにやってくる大雨にも暴風雨にもびくともしない荒川放水路を、いったいだれが作ったのだろうか。(中略)。
荒川放水路の工事にも、その工事の全責任をおった主任技師があった。
先年の大暴風雨のあと、荒川堤をひとりの老人が歩いていた。かれはまだ濁流が音をたてて流れる岸辺を、注意ぶかく見ながら歩いていた。
この老人こそ荒川下流改修工事と、放水路の工事に主任技師として工事を完成させた、工学士青山士(あきら)氏であった。
かれはいま、年おいて静岡の磐田市に余生を送っているのだが、暴風雨のあとなどにはかならず自分で手がけた工事のあとを、いまでも見てまわるのである。(中略)。
太平洋戦争中、軍部から、
「おまえはパナマ運河を知っているはずだが、あの運河を止めるにはどこを破壊すればいいのかおしえてくれ。」
といわれたとき、青山技師は、しずかに、
「わたしはパナマ運河をつくる方法は知っていても、こわす方法は知りません。」
とこたえたのである。
(以下略)。」(筆者竹崎有斐(ゆうひ))。

・「洪水をふせぐ人びと~荒川放水路をひらいた青山士~」(神戸淳吉作)
(「少年少女世界伝記全集 1」所収の「町や村をまもった人びと」(昭和33年、宝文館刊)。

・「この人に学ぼう」(昭和41年刊、講談社、)第四巻には<平和と正義を愛した技術者>として「水とたたかう」の章に青山が登場する。自らの功績を喧伝しない「沈黙の土木技師」として描かれている点に共通項がある。

東大を定年退官した南原繁が東京から訪ねて来て、県立磐田南高校で講演し、青山家に一泊した。講演は青山の依頼によるもので、南原は講演料を受け取らなかった。青山家での老書生二人は「内村鑑三論」や過ぎ去った青年時代の信仰の友との交流話を語りあった。

晩年の青山に2度面会した河川工学者(東大名誉教授)高橋裕氏は追想する。

「(前略)二度目に訪ねたとき、青山さんが最初にいわれたことは、『技術の発展はまことにすばらしいが、人間形成の面では果たしてこれよいのだろうか』という点であった。むしろ退歩しているのではなかいという心配が本心ではあるまいか。人間形成といわれた内容は、全体のお話から私が察するに、先に触れた責任感、技術者の仕事と遊離しない情操、自己の技術そのものへの生涯を賭ける執念などであろうか。青山さんの場合、これらを通じていえることは、キリスト教的人生観のなかに立派に融け込んだ技術の使命、その天職に没頭して悔いなき人生を送っているという、穏やかな安定感が会話の調子にも、表情にもにじみあふれている」
「現代の日本はふたたび第二、第三の青山さんを要求している。もちろん近日におけるパイオニア・スピリットは明治時代のそれとは内容は異なろうし、誰も青山さんのような宗教的人生観に徹しうるとは限らない。それが何であるかは、後に続く者が今日の環境と自己の鍛練のうちに開拓しなければならない課題である。(中略)ポツンと青山さんはいわれた。現在の心境の一端をあらわすかのように。“生くることは、われにとっては戦うことなり”(Vivere est militare)。(「土木学会誌」昭和37年1月号の「名誉員 青山士氏をお訪ねして」より)。

穏やかな死

技監・青山士(土木学会図書館蔵)

昭和38年(1963)3月21日(春の彼岸の日)未明、富士山が見えるところがいいと磐田市河原町の自然の残る高台に建設した自宅で、老衰のため掛かりつけの医師の到着を待たずに静かに息を引きとった。享年84。瞑目した青山の顔は穏やかであった。

青山の晩年の言葉。

「われ川とともに生き、川とともに死す。無能無芸にして、この一義につながる」。
「晴れもあり 雨の日もあり 八〇年 御国へいたる さすらいの旅」
逝去から1カ月後の4月21日、東京・学士会館で内村鑑三門下生と青山家の遺族らが集まり「青山士追悼会」が開かれた。元東大総長南原繁(政治学者、1889~1974)が新興の友を代表して追悼文を読んだ(南原繁『日本の理想』にも掲載)。

「私はこのたび青山さんの親しい友人から聞いて初めて知ったのであるが、その生涯を通じて彼を導いたモットウは
“I wish to leave this world better than I was born.”
(私はこの世を私が生まれて来たときよりも、より良くして残したい)
というのであった。
これこそは、青山さんが一高生徒の頃私淑した内村鑑三先生の『本安録』から学んだ句で、氏が大学に入って土木工学を一生の業として選んだのも、この言葉が決定したのである。われわれの生まれたこの地―洪水が襲い、疫病がはびこるこの大地―を少しでも良くして、後代に残したいというのが、神から示された青山さんの生涯の使命であったのである。宗教的信仰さえもが大きなマス・コミの波に流されている時代に、彼はその一生、おそらく信仰について、一片の文章も書かず、一度の説教も試みることはなかった。ただ黙々と、己が命ぜられた『地の仕事』に、すべてを打ち込んだと言っていい。
だが彼は一介の技師でなかったと同時に、また、いわゆる世のクリスチャンとは異なって、その信仰は地に着いていた。人間的な教養と日本的、東洋的な趣味に豊かで、漢詩や俳句も愛誦した。それは青山家父祖伝来の精神かと思われるが、彼はよくその土台にキリスト教信仰を接ぎ木した人と称してよいであろう」
「青山さんはその名の示すごとく、実に士(さむらい)らしい基督者であった。かれはそれほど祖国日本とその伝統を愛した。だが、それと同時に、いな、それ以上に、人類と正義を愛した」

参考文献:拙書「評伝 技師青山士」(鹿島出版会)、筑波大学附属図書館資料。

(つづく)