宮城県山元町 山元民話の会 庄司アイさん
震災の記憶を民話で伝える

 

宮城県山元町には、民話の力に惚れ込み、地域の文化や歴史を次代に引き継ぐ活動を続ける「山元民話の会」がある。代表は、同町に嫁いで半世紀以上になる元保母の庄司アイさん(78歳)。「心を動かす教育こそが本物の教育」と語る庄司さんは、津波被害の歴史を後世に残そうと、住民有志と「巨大津波」を共同で著した。柳田

男が確立した民俗学と同様の力を持つ民話を通じて、津波災害のリアルなエピソードをご体験ください。(編集部)

 

民話は残った 庄司アイ

犬って臆病なんですね。生後4カ月のニッキ(柴犬・オス)が、おりをやぶって飛び出し、キャン、キャンって鳴いて私のいた居間を、足ぃすべらせ、すべらせ走り狂ってました。まんぜろく、まんぜろくって、大声で呪文を唱えたのにも、効き目なく大きくて長い地震でした。

私は「こんなに大きな地震だもの、津波くるッテ」って、夫に声をかけても、動転してしまった夫からは返事もない。

そんで「テレビを消せ」って、大きな声を出す。私は「情報がわからないでしょう」って、ラジオを居間に持ってきてボリュームをあげた。

孫娘のかな恵(中2)は、友達の荒さん宅に行ってて不在。その時、私の心は孫を待つことでいっぱいだった。荒さんは、必ず車で送ってくれる方でしたし、迎えに行ったら行き違いになることも頭をよぎったから。

食器棚なんかはロックが掛かってくれたが、コップなんかは崩れていたし、棚や箪笥の上の物が落ちて足の踏み場もないほど。玄関と座敷のお雛様も倒れてしまってた。

私が退職してから、製作をつづけた木目込みの人形たちなんで、夫もすぐに手をかしてくれたが、「こんな、飾り物なんていらない。まんぜろくなんて、全く効き目なかった」って、興奮がひどい。

北海道の孫から電話がかかってきたのには2人で対応したが、東京の孫からのには、ハイハイ、モシモシで、不通となってしまった。

間もなく荒さんが、2人の娘さんとかな恵を車にのせて来てくれました。外に迎えに出て、女5人抱きあって泣きました。娘3人は、体の震えも心臓のたかなりも止まりません。5、6分話したと思う。

かな恵はニッキを抱き、二人で車を見送りに前に出たら東隣の方で、何かあったか気がかりな車が見えて、心配になったのです。が、一度中に入ってからと思って玄関口に上がった時、「ばあちゃん津波―っ、早く早く、二階にーっ」ってかな恵が駆け込んで来たのです。

一瞬ふりかえると、1キロ前方、自動車学校の西の耕土を、もくもくと黒い瓦礫の塊が西に寄せてきたんです。「津波・津波って、海の水がくるんだよ」って思いつつも、「早く、早く」の声で、夫も不審気に「なーにー」って、私に続いて階段を上がりました。夫は振り返りたかったのでしょう、「あぁっ、二階まで水っ」と大声だしました。

2階に、1、2秒早く上ったかな恵の目に入ったもの、それは、隣の横山さん家族の乗った車だったのです。「もう横山さんち駄目だーっ」って、悲嘆一言。

2階にも水が入って、すぐベランダに出た。「家が、動いている、動いている」と、私が声を出しました。その後、3人と1匹、…無言、交わす言葉もなく漂流…。

私は心に何の曇りもなかった。「おしまいのときだ」と。そして、「私の人生、悔いはない。晩年は民話などやっていて、いい人生だった」。そういえば、「お諏訪さまの大杉の話、小鯨の話、舟越し地蔵さまの話」、大昔の人が伝えた「大津波」の話だったなあ。民話を語ってくれた先人たちは「民話の一つひとつには根拠がある」っておしゃってたことも思い出しました。

家はすぐ、戸花山の麓、そして山沿いを北に流れた。でもおかしい。いつも通る景色がない。家が続いていたはずの麓には、1軒もない。そのうち、竹林、孟宗の竹林が見えた。やっぱり、ここは戸花山。戸花を過ぎても北へ流れ赤坂といわれているあたりまで流された時、ずっと上、西の方に数軒の家が見えた。

「あっ、あの奥の方には、宮城病院がある。息子たちは大丈夫なんだ。よかった」と思った時、「あれっ、もしかして、ノアの箱舟」…。

でも、でも、私はノアのように正直者ではなかったなあ、だから神様は助けてはくれない。でも、本当に不思議なんです。先祖さまや兄弟、友人、たくさんの方が私に来て付いてくれている不思議な雰囲気を感じていたのです。そして、さっき、かな恵を送ってくれた荒さんの家族、駅前の弟家族に思いをめぐらしていました。「助かってほしい」と。

家は傾きながら、東にぐんぐん流れました。私の目に清掃センターの建物と百メートルの煙突がちらっと見えて、間もなく家は南向きに前のめりになって、止まったのです。

やっと3人が目をあわせました。べランダにも水があがっていました。視界のあるかぎり瓦礫の海で立木もなければ家もない。流されて傾いた家が近くに2軒ありました。

犬のニッキは、普段とってもうるさくてじっとしていない、鳴いてばかりの犬なんですが、夫に抱かれても、もう沈黙の犬になっていました。

気づくと水が引いているようで、部屋の水が膝ぐらいになった時、夫は中の様子を見てくると入りました。「奥のかな恵の部屋が、水の引きがいい。2階5つの部屋がくっついてて、窓もしっかり閉まっている」とのこと。

夫は「今晩の休む場所を用意する」といって、また中に入りました。夫はすごい人だと思った。明日に希望をもって行動してるんです。机や箱物を集め高く積んで、戸板を置いて、多少は濡れているけど、布団も用意しました。

かな恵はペンほどの電池をみつけてくれたし、夜中寒さがきびしくなった時は、電池を照らしてカイロを5つ見つけて、夫と私に2つづつと自分は一つ。これもありがたかった。

夫は腕時計を掛けていたので、時間の確認ができ、月あかりで、外の様子がわかった。水はたっぷりあった。夫は、「ここは、どこ」とせっかちに聞く。「焼却炉の南」と答えるが、納得なし。

(後でわかったことは、家が動いた時から流されていた時間帯、夫は全く何も見えてないのです。空白で意識が失せていたというのです。私は、鮮明にその光景が映像になって残っているんですが)

私は声には出さないですが、全身をこめて、呪文を唱えていました。夫は、声を出せ、何かしゃべれ、眠るな…と、夜通し私たちに声をかけてくれていました。

すこしずつ明るくなって、夫に「昨日、瓦礫から引き寄せた、棒を持ってきて。なるべく長いものを」と頼みましたら、物干し竿があったと、長いのを部屋に入れてくれました。かな恵の赤いバスタオルがあったので、紐をさがして竿にくくりつけ旗にしました。

夜明けと共に、夫とかな恵は旗ふりをしました。私は立ち上がれず、北の窓を開けて、棒にシャツを結わえて振りました。窓から下を見たら、常磐線の線路が西におし流され、そこに瓦礫がたまり、我が家はそこで止められていたのです。焼却炉もすぐ北に見えました。

ヘリコプターが飛び、八時ごろと思うが、山下駅の方向からの救出が始まりました。10時ごろと思う。ベランダの二人の会話がはずむように聞こえ、間もなく、

「早くベランダに出て顔を出せ」というのです。長男の克哉の姿が見えるとのこと。

南方より瓦礫を越えて来る息子を確認、間もなく娘の夫の英一さんの姿を確認、もう一人、私の後ろの家の寺島さんでした。寺島さんは、お母さんが行方しれずで探しておられたとのこと。寺島さんも私たちの脱出を最後まで手伝ってくださいました。

ベランダ側は海なので、北の窓からの脱出。都合の良いことに、瓦礫の中からはしごを見つけてくれたのです。山のようなどろんこの瓦礫の上に折れ曲がった梯子がかけられました。英一さんの長靴を順番に借りて、寺島さんと息子に支えられ、かな恵、私、夫の順に脱出しました。

命のあったのもつかの間。日に日に隣近所、友人知人、縁戚と、聞くのは訃報のことばかり。全身の力も抜け、やり場がなく、自分はすべての物をなくした悲しみで数日が過ぎました。

 その時、みやぎ民話の会の島津信子さんが来てくれたのです。とてもよろこんでくださったのです。抱き合って、泣いて、泣いてよろこびました。「みなさん、心配してくださっておられた」と。その時、「あっ、私には民話が残っていた」

喪失感が覚めたのです。皆さんも被災者なのに、私一人が被災者のようにお励まし頂きました。皆さんのやさしさに感激しきりでした。

再起への力は民話からもらいました。

民話はやさしい

民話は熱い

民話は強い