江戸幕府・中興の祖である第8代将軍吉宗(提供:高崎氏)

江戸幕府<中興の祖>とされる8代将軍吉宗(1684~1751)の治世は、享保改革という一大改革期であった。江戸幕府3大改革の一つであるこの改革は、行き詰った財政事情の打開策を模索するものであった。倹約の奨励、武芸の振興、年貢の増強、定免制の実施、株仲間の承認、町人による新田開発の奨励、足高制・公事方御定書の制定、目安箱の設置、養生所の設立、医学洋学の奨励、人材の登用(今日の<おともだち政治・政権>とは正反対である)。紀州藩主にすらなれないと思われた男が55万石の藩主になり、あげくに将軍にまで上り詰めた。吉宗の享保改革は旧弊を打破する高邁で現実的な政策として評価が高い。以下「日本の時代史16」(吉川弘文館)などを参考にし、一部引用する。

財政再建と新田開発

改革の中核である幕府の財政再建は、改革前期の勝手掛老中(かってがかりろうじゅう、農財政専管老中)の水野和泉守忠之と後期の勝手掛老中の松平左近将監乗邑(さこんのしょうげんのりさと)によって展開された。2人の辣腕老中は、いずれも吉宗による抜擢である。

「徳川理財会要」などによって、幕府財政の支出項目をみると、琉球国使や朝鮮からの通信使などの外交費、大砲鋳造・砲台築造などの軍事費、旗本ら幕府官僚の人件費などのほか、河川治水(水害対策)、寺社修復、道路や橋の修復、救恤(きゅうじゅつ、貧民救済)、褒章などの費目が挙げられる。一方、幕府の財政支出(赤字)を補ったのが、幕領からの年貢米であった。

吉宗の財政再建の基本は、倹約による支出抑制と増税による収入増加であった。吉宗は最初の老中・水野忠之を勝手掛老中に任命し、財政再建の基本計画を検討させた。水野の答申は(1)年貢増徴(2)新田開発を基本とするものであった。成果が出るまでの緊急措置として、享保7年(1722)7月に上米の制を実施した。この制度は、諸大名に毎年1万石につき100石の割で献米させるものであった。
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税制改革は享保7年以後、各地の幕領で検見取法(けみどりほう、年ごとの生産高をもとに年貢量を決定する方法)から定免法(じょうめんほう、一定年間年貢を固定する法)へと税制転換を行い、役人の不正を防止し、収入の安定を図ると共に、年季切れの際の引き上げもねらった。

空前の新田開発は、享保7年に江戸日本橋(現東京都中央区)に新田開発の高札を立て、町人請負を含む開発促進の方針を公示したことに始まる。この法令に基づき、下総国の飯沼新田(茨城県)、武蔵国の見沼新田(埼玉県)・武蔵野新田(東京都・埼玉県)、越後国の紫雲寺潟新田(新潟県)などの広大な新田が誕生した。

現場で開発の指揮を執ったのは、その大半が吉宗が紀州藩藩主の頃育てた地方巧者(じかたこうしゃ、土木技術者)であり、その代表が井澤弥惣兵衛である。
<米将軍>吉宗時代の新田開発には際立った技法上の特徴があった。江戸時代前期に盛んに行われた新田開発では、農業用水として湖沼や溜池それに小川の水を利用する場所を対象としており、大河川の中下流域付近一帯は手つかずのままであった。肥沃な地帯が開発対象とならなかったのは、当時の築堤技術、河川管理技術のレベルでは河川の流れを統制するのは不可能だったからである。ひとたび増水すると、洪水は堤防を切って溢れ出し、一帯を水面下に没し去ってしまう。流域民も溢水の危険(大洪水)をあらかじめ考慮して、河川敷を広く設けており田んぼや民家は遠く避けるのを常とした。徳川幕府が伝統的に採用してきた伊奈流(関東流)工法は、この観点に立つものであった。

将軍吉宗が紀州藩から招聘した井澤弥惣兵衛ら土木技術者たちは、新しい工法(紀州流)を幕府の治水策の柱に据えた。それは高いレベルの築堤技術と多種の水制工を用いた河川流路の制御技術(「川除(かわよけ)」と言う)とをもって、利根川や木曽川などの大河川の流れを連続長大の堤防の間に閉じ込めてしまう技法であった。

紀州流工法によって、大河川下流域付近一帯の沖積平野や河口デルタ地帯の開発が可能となった。しかも堤防の各所に堰と水門を設けて、河川から豊富な水を農業用水として引き入れることによって、河川付近のみならず遠方にまで及ぶ広大な領域に対して田地の灌漑を実現した。

新しい土木技術や河川管理技術によって、また勃興する商人たちの資本力を活用した町人請負制型の新田開発の方式を導入することによって、幕領の石高はこの時期に約60万石の増大をみて460万石ほどに上った。<米将軍>吉宗の積極策のもと、幕府の財政再建は着実に進行し、改革の開始から10年余を経た享保16年(1731)頃には財政は黒字基調に転じて諸大名からの上米に依存しなくてもすむ状態に到達した。
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この間、幕府は1726年新田検地条目を発布し、開発の成果を年貢として吸収する体制を整えている。勘定所(財政当局)の記録によると、幕府の年貢総額の平均は、1716~26年の140万石余に対し、1727~36年(元文元年)は156万石と年平均16万石も増加している。

この他、甘藷(さつまいも)や櫨(はぜ)などの殖産興業政策や薬用の朝鮮人参など輸入品の国産化政策も推進された。1728年には四代将軍家綱が1663年(寛文13年)に実施して以来絶えていた日光東照宮の参詣が65年ぶりに復活されたほか、1730年頃には江戸城の奥金庫に新たに100万両の金が蓄えられ、同年には上米の制が廃止された。

紀州流の祖・井澤弥惣兵衛の像(さいたま市緑区の見沼自然公園、提供:高崎氏)

大飢饉と米価暴落

その後1732年頃になると、「享保の大飢饉」とよばれる西国の飢饉や過剰米による米価暴落などのために、幕府財政は再び悪化に転落した。これに対して、吉宗は1737年(元文2年)6月、水野忠之が1730年に退任して以来空席となっていた勝手掛老中に松平乗邑(のりさと)を抜擢し、改めて年貢増徴に取り組むことにした。松平乗邑は、大岡忠相が常に同僚に対して「松平左近将監ばかりは其の才智の敏捷(びんしょう)なること梯(てい、階段)しても及ぶべからず」(「甲子夜話」)と、自分がはしごをかけても及ばないと、その才能を認めたという逸話が残されている。

松平乗邑は、1737(元文2年)~45年(延享2年)までの享保改革の最後の8年間、老中首座・勝手掛老中として改革政治を主導したが、彼の元で諸政策を積極的に展開したのが、勘定奉行の神尾若狭守春央(かんおわかさのかみはるひで)以下の勘定所官僚群である。神尾は「ゴマの油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」(本多利明「西域物語」)と語った人物として、また厳しい年貢増徴で知られる。彼は1737年6月勘定奉行に就任し、勘定所や代官などの人事権をはじめ、農財政に関するさまざまな権限を握った。この神尾を補佐したのが、勘定組頭の堀江荒四郎であった。外様大名の多い西国筋の増徴を徹底的に行った。
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乗邑の体制下で、神尾らによって推進されたのが、流作場(河川敷)と原地の新田検地である。流作場検地は、1738年以降本格的に立案・実施されたものであるが、従来入会地であり、石高を付けていない河川敷を開発し、年貢を賦課する政策であった。一方、原地検地は、1743年(寛保3年)以降、本格的に立案・実施されたものであり、これも新たに山林・原野を「林畑」として把握し、年貢を賦課する政策であった。

これらの政策の背景には、大名・旗本など個別領主の支配が認められているのは、本来検地によって石高に結ばれた土地(高請地)のみであり、それ以外の山林・原野などの「高外地(たかがいち)」は幕府の領地であるとする乗邑体制下の勘定所―代官の認識があった。彼らは、たとえ私領の地先で再生産に必要な肥料の供給源であっても、これを幕領新田として捉え、年貢を賦課していったのである。強引な新田政策の結果、幕府は1737(元文2年)~45年(延享2年)までの8年間に、面積2万3100町歩余、石高2万100石余、地代金上納分2万7000両を得るに至った。
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吉宗は、勘定所の機構改革を促進するため、享保7年(1722年)に町奉行の能吏大岡忠相に地方御用(農村支配)を兼務させた。大岡の下には、彼を「御頭」と仰ぐ田中休隅(きゅうぐ)、蓑笠之助、川崎平右衛門ら優れた地方巧者が集まり一団を形成した。彼らは関東各地で独自の農政を添加逸する一方で、寺社の道具修復や河川普請を担当するなど、勘定所と競合・対立しつつ職務を遂行した。延享元年(1744年)、大岡は、勘定所体制が良くなったことから地方御用の職務を勘定所へ返す事を願い出た。辞職は翌年に認められたが、大岡が自らの役割を勘定所の整備促進と認識していた事が知れる。

吉宗は、享保8年(1723年)6月18日、幕府の各役職の責任者を江戸城内の芙蓉の間に集め、足高(たしだか)の制を申し渡した。この制度は、役職ごとに基準高を決め、その役職に任命された者の家禄(代々家に伝わる俸禄)が基準高に達しない場合、在職期間中に限って不足分を支給するというものである。たとえば家禄500石の旗本が基準高3000石の町奉行に就任した場合、在任中2500石の足高を受けるのである。従って、1920石で町奉行となった大岡忠相は1080石の足高を受ける。足高の制度は、家格にとらわれない能力主義・個人主義を導入した点において官僚機構整備の重要な柱となった。

足高の制度により、勘定奉行は、みな禄高が低いが能力によって出世した者であり、勘定→勘定組頭→勘定吟味役→勘定奉行という勘定所内部の昇進コースが確立した。人材登用策である。
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勘定所役人を統括する勘定奉行は、時代初期は中級の家格の旗本が、書院番、小姓組、大番役などを出発に、使番(つかいばん)・徒頭(かちがしら)・目付・遠国奉行(おんごくぶぎょう)・作事奉行などの職を経て就任することが多かった。従って、就任年齢は60歳前後が多く、その昇進は家格に基づくものであり、必ずしも実力主義ではなかった。

ところが、足高の制以降、勘定奉行の性格は大きく変わった。すなわち、寛文2年(1662年)から享保14年(1729年)までの68年間に、34人の勘定奉行が任ぜられているが、このうち、勘定方出身の勘定奉行は、わずかに2人である。他はすべて番方(軍事職)の出身であった。

これに対して、享保改革の後半になると、12人の勘定奉行のうち番方出身は5人に過ぎず、他の7人は勘定方出身か財務関係職の経験者となる。しかも彼らの多くは、1000石以下の小禄の者たちであった。足高の制は、勘定所を中心とする官僚制の確立に大きな役割を果たした。

旧習や古来の風習の否定は、享保改革後半に農政を主導した老中松平乗邑のもと、勘定奉行の神尾春央や新御代官たちの政策にも見られた。彼らは近世初頭以降独自の関東支配を展開してきた伊奈氏の農政を「古法」「古来の法」と否定し、新たな農政を展開した。新代官たちは伊奈氏の「家風」に基づく皆済目録を発給しない農政を否定し、同目録を発給するようになっている。
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将軍吉宗による蘭書(オランダ書物)解禁という画期的英断にも触れておきたい。日本における近代科学技術思想の形成を顧みるとき、その源流は18世紀、ことに享保5年(1720年)の吉宗による蘭書解禁以後の思想状況に求められる。御書物奉行を務めた近藤守重(北方探検で知られる重蔵)は、その書「右文故事」の「この年(注:享保5年)ヨリ長崎舶来禁書ノ内西洋人ノ著述タル共邪法教化ノ事記サザルモノ御構之無キ旨ナリ」と記した。

江戸初期おける蘭学の発達は、鎖国下にあることから西洋の学術・知識の吸収や研究は、困難であった。が、西川如見や新井白石が世界の地理・物産・民俗などを説いてその先がけとなった。ついで将軍吉宗は、漢訳洋書の輸入制限をゆるめキリスト教関連以外の書物の輸入を認めるとともに、青木昆陽、野呂元丈らにオランダ語をまなばせたので、洋学は蘭学として発達した。吉宗の蘭書解禁に伴う実学の奨励が契機となって、西洋科学に対する理解が洋学者たちの共感をともないつつ着々と進展した。いちはやくとり入れられたのは、実用の学問としての医学で、1774(安永3)年、前野良沢や杉田玄白らが西洋医学の解剖書を訳述した「解体新書」は、その画期的な成果であった。

時代は前後するが、吉宗は享保2年(1717)に日本絵図の作成を指示した。古来より国土の地図と土地台帳を完備することは、国家統治者の習わしであった。日本絵図は、全国の国絵図を集成して作成されたが、元禄時代の日本絵図の出来がよくなかったため、吉宗は再編集を命じたのである。絵図の作成は、国土の実態把握と同時に、吉宗が全国統治者であることを広く認識させる役割を果たした。

享保5年(1720)には、河川の国役(くにやく)普請制度(改修制度)を整備した。これは幕府主導の下、幕領・藩領・旗本領・寺社領など支配の違いを超えて国を単位に普請費用を共同負担する制度であった。国家が地域の利害を調整して、自然災害に対する国土保全を主導する体制を整備したのである。封建下における画期的な制度と言える。

吉宗を超える革新的・開明的・進歩的な徳川将軍はいない。

参考文献:「日本の時代史16」(吉川弘文館)、拙書「水の匠、水の司、<紀州流>治水・利水の祖、井澤弥惣兵衛」、「徳川実紀」、筑波大学附属図書館文献。

(つづく)