坪井玄道胸像(筑波大学キャンパス)

筑波大にある像と説明

今や、サッカーは国民的スポーツの王座に座った感がある。サッカーは略称または俗称で、正式名称はアソシエーションフットボールである。近代日本に初めてサッカーを紹介し、直接指導にあたり発展の端緒を開いた教育者について語りたい。日本サッカー界の先駆者、坪井玄道(げんどう、1852~1922)である。

筑波大学体育専門学群を訪ねた時のことである。体育館近くの歩行者専用デッキを歩いていた時、風雨にさらされた古ぼけた胸像を見かけた。口ひげを蓄えた威厳ある胸像をあらためて見てみると像の下に「坪井玄道先生之像」と刻まれている。像の手前にある石造りの説明版は坪井の偉業を讃える。

「嘉永5年(1852)、下総国(現千葉県)の生まれ、洋学校で岡保義に英語を学ぶ。師範学校での通弁官(通訳官)の後、宮城英語学校、仙台中学の教師を経て、明治11年(1878)、文部省がわが国学校体育の本格的な研究と指導者育成のために開設した体操伝習所(現筑波大学体育専門学群)で米国人教師G・A・リーランドの通弁官を務めた。リーランド帰国後は同所主任教師として軽体操(普通体操)を指導するとともに戸外遊戯(遊戯は体操の意)の必要性を説いた。体操伝習所廃止後は高等師範学校(筑波大学前身)助教諭、教諭を経て、同校兼女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)教授などを務め、ローンテニス、フットボール、ピンポンなど、西洋スポーツの紹介普及に努めるとともに、ダンスの指導を通じて女子体操の振興にも力を注いだ。
『わが国学校体育の父』と呼ばれる。大正11年(1922)没
平成18年(2006) 筑波大学体育センター長 萩原武久」

玄道は日本サッカーの発展に顕著な功績があったとして日本サッカー協会のサッカーミュージアム(東京・文京区)に「殿堂入り」をしている。江戸末期生まれは玄道だけであり、教育者の「殿堂入り」は極めてまれだという。

勉学を好んだ少年

坪井仁助(じんすけ、後の玄道)は、嘉永5年(1852)1月9日下総国葛飾郡中山村鬼越(おにごえ、現市川市鬼越)の郷士・坪井嘉助の次男として生まれた。ペリー提督率いる黒船来航の1年前である。郷士は武士でありながら農村に居住して農業を営む豪農を言った。仁助は少年の頃から勉学を好んだ。寺院の僧侶らに和歌・俳句や漢学さらには日本の歴史を学んだ。江戸に出て蘭学も学びたいと願った。「内憂外患」の激動の時代だった。生誕の地は江戸に近いだけに幕末の混乱した世相の影響を受けやすく、向学心に燃える仁助の心は動揺した。少年の向学心は農村地帯には受け入れられるものではなく、農家の後継ぎを望む両親の期待に反するものであった。

「学問をして医者(蘭方医)になり、世の中に役立つ人になりたい」。幕末の慶応2年(1866)春、14歳の仁助は医学を志し家族の反対を押し切って江戸川を船で渡り江戸へ出た。紀州藩江戸屋敷の御殿医・坪井玄益が叔父だったことも影響したようである。江戸へ出た仁助は、知人の紹介で両国隅田川べりにある藤堂和泉守(津藩主)の下屋敷に住み込み勉学を続けた。その後、彼は開成所(後に洋学所)に入り教授・岡保義について英学や数学を修めた。医学を修めるためには語学力と数学が不可欠であったからで、彼の英語力は教授も驚くくらい上達した。明治4年(1871)、文部省が設置され、近代教育の組織化の第一歩が踏み出された。仁助は玄道に名前を改めた。玄道は「奥深い道」を意味する。その後、大学少得業生(教官職、今日の講師)となり大学南校(現東京大学)に勤務した。初志と異なって高等教育の場で教鞭をとることになった。

師範学校教員と通訳官を兼務

明治5年(1872)8月に発布された学制で日本の近代教育制度が初めて体系化された。文部省は学生発布前に小学校における教育方針を研究するために教員養成所の必要性を認め、「小学校教師指導場設立の儀」を正院(当時の最高官庁)に提出し認可された。これを受け文部省は師範学校(その後東京高等師範学校、東京教育大学を経て現筑波大学)を設立した。玄道はこの年文部省12等出仕に任ぜられ師範学校掛となって新時代の教員養成教育に携わることになった。その一方で、「通弁官」としてアメリカ人青年教師マリオン・スコットの通訳を務めた。

師範学校は湯島の旧昌平黌(きゅうしょうへいこう、江戸幕府直轄の学問所)の建物を利用した。第一期の師範学校生(今日の大学生相当)は54人で、教科書などの教材や用具はすべてアメリカのものだった。坪井は「通弁官」として、スコットが生徒に講義する内容の通訳を務めた。スコットは正科である英語と算術を教え、その授業と生徒の質問を坪井が通訳した。日本における高等教育指導法の伝習が始まった。生徒たちは優れた指導者に育っていく。

坪井は通訳としてばかりではなく、教育界における新分野を開拓し小学校教授法の近代化に貢献した。坪井らの要請で師範学校に付属小学校が設置された。今日の筑波大学付属小・中学校である。明治7年(1874)8月、スコットが任期満了となって帰国した。スコットが去った後、坪井は仙台英語学校の英語教師となって若い世代の教育に打ち込んだ。しばらく仙台で時を過ごしたが、明治11年(1878)坪井玄道の生涯を決定づける記念すべき時がやってくる。

坪井の体操関連著作(筑波大学付属図書蔵)

体育伝習所の教官へ

文部大臣・田中不二麿はアメリカの教育事情を視察した後、アメリカの教育制度を取り入れ日本の教育制度の改革を断行した。これが体育面にもあらわれ、文部省は明治11年10月に布達第5号をもって文部省直轄の体操伝習所を設置することになり、日本初の官立体育教師養成学校ならびに体育研究所として発足することになった。体育伝習所の主幹(所長)には東京高等師範校長伊沢修二が兼任し、田中不二麿の努力によってアメリカ・アマスト大学教授ヒッチコックの推薦を得て同校卒業生・医学博士ジョージ・アダムズ・リーランドが招聘され体操教師となった。リーランドの通訳者選考の結果、アメリカ人教師スコットの教授法を通訳した実績に基づき坪井玄道を起用することとなり仙台から呼び寄せた。坪井が体操教育に専心する端緒が開かれたのである。医師を目指したことのある坪井は医学博士リーランドに親近感を持った。坪井は26歳であった。

体育伝習所の初代教員として発令されたのは次の通りである。主幹・伊沢修二、教員・リーランド(普通体操、体操論)、平岩恒保(英語、物理)、坪井玄道(通訳、英語、数学)、川崎典民(解剖生理、健全学)、荒野文雄(漢文、作文)、溝口耕平(図画)。同伝習所は、明治12年(1880)4月、東京府神田区一ツ橋(当時)で開校し25人の生徒を入学させた。体操伝習所の構内からは軽やかなワルツや行進曲のピアノ演奏が聞こえて道行く人の耳目を集めた。生徒たちの体操を伴奏するドイツ人クララ夫人の弾くピアノの軽快なメロディであった。

リーランドは東京高等師範学校をはじめ、東京大学予備門(今日の東大教養課程)などエリート校でも体操術を教えた。彼の通訳はどこでも坪井の担当であった。リーランドが指導した体操術は19世紀半ばに発表されたアメリカ人ダイオルイス考案の手持ち用具(棒やダンベルなど)を活用した体操であり、この他に体育論も講義した。体育論は体育に関する医学的な理論をまとめたもので、解剖学、生理学、衛生学的見地から見た体操論である。体育思想としてはイギリスの哲学者ハーバート・スペンサー流の3育主義(知育、徳育、体育)の流れに沿ったものであった。明治14年(1881)リーランドは任期を終えて帰国した。玄道はその後を受け継ぎ体操教師の養成にあたった。坪井は回想している。

「リーランド氏の教授を生徒の前で通訳するのが、私の職務であったが、書物の講義と違って、技術に関する事なので、常に生徒に授業する前に、私はリーランド氏から其日の課業を実際に学んでおいて、それから授業に出ることにして居たので、私はいつしか一人前の体操の教師となって了(ルビしま)った。(中略)。私は体育に非常に熱心になって了ったので、とうとう(リーランドの)其後を引き受けて体操の教師として世に立つようになった」(「教育50年史・体操伝習所の設置」)。

明治14年6月、29歳の玄道は旧幕府旗本の斎藤三理(かつみち)の次女・志うと結婚した。この時志うは14歳だった。

殿堂入りの記念レリーフ(日本サッカー協会、サッカーミュージアム)

体操の理論と実践

坪井は明治15年(1882)、リーランドが伝習所や東京高等師範において実際に生徒を指導した実技と著書「新撰体操術」(英文)の体育理論をまとめ「新撰体操書」(金港堂)を刊行した。同書は筋肉発達(スポーツ理論)を目標としたものというよりも身体を正常な健康状態にすることを目的にしたものである。彼は同書を活用しながら全国の学校に出張して体操の普及を図った。

明治18年(1885)4月、坪井は教え子で高等師範教員の田中盛業(1859~1924)と共編著で「戸外遊戯法」(金港堂)を刊行した。同書は坪井自身が言っているように「この法に関して未だかつて一書を著せるを見ず」であり、日本人によって書かれた初の近代スポーツ解説書である。欧米で行われていた戸外遊戯法の関連書籍から主要な内容を選択して翻訳し、それに実際指導していた実技も取り入れて編集したものである。

内容は唱歌遊戯、行進遊戯、競争遊戯、ボール遊戯など21種類で、第17章の「フートボール(フットボール)」をはじめとしてローンテニス、ベースボールが紹介されている。スポーツマンシップやフェアプレーの重要性も指摘している。ここに初めてフットボールが日本語で紹介されたのである。初のサッカー解説書である。坪井の指導により伝習所で「運動会」は始まったのもこの頃であった。「運動会」はたちまちのうちに全国の学校に広がっていく。19年、体操伝習所が廃止となり、同校は東京高等師範に吸収された。坪井は東京師範学校教師(助教諭)となる。34歳。

<付録>明治初期の文明開化の時代から、イギリス生まれの近代スポーツ・フットボールが日本に導入された経緯を略記する。
・明治6年:東京築地海軍兵学寮にて、A.L.ダグラス少佐及び33名のイギリス海軍兵がフットボールを伝える。(軍事)
・明治7年:工学寮(工部大学校、東京)にて、イギリス人講師R.ジョーンズがフットボールを指導。(学校教育)
・明治13年11月:横浜フットボールクラブのオープニング・マッチが実施される。(外国人居留地)
・明治14~15年:地方府県の師範学校の求めに応じて体操伝習所が「蹴鞠」3個を製作供給する。(学校教育)
・明治16年6月:大学予備門の英語教師F.W.ストレンジが「Outdoor Game」を著し、フットボールを紹介する。(学校教育)
・明治18年4月:伝習所教員坪井玄道らが「戸外遊戯法一名戸外運動法」を編著作し、その中でフットボール(蹴鞠ノ一種)を紹介する。(学校教育)

フットボールを初めて紹介

「戸外遊戯法」で紹介されたフットボールの競技規則は、1863年に創設されたイングランド・フットボール協会(Football Association:FA)公認のいわゆる「FAルール」に準じたものである。競技規則の紹介に先立つ導入部分では、競技人数(11人)、ボール、勝敗の決め方、競技場など、フットボールに関する基本的な情報で、競技規則の前提として理解しておくべきことが簡単に記されている。サッカーに不可欠のオフサイド・ルールも記されている。注目すべきことは「演習者(選手)の人数を11名と定めながらも、これをいくらでも増加してよい」としている点、それに「各組を指揮し統率する首領を1名選ぶ」としている点である。これらは国際的な共通コードであるFAルールには見られなかった坪井による独自の記述である。競技者の多数化を図ったのは、小学校の校庭で大勢の児童が競技に参加する場合のための柔軟な対応であると考えられる。

「ゴール」を城壁の意としているのは誤りで境界線の意であるが、各チームに「首領」を置くことを考案してフットボールを「戦争ゲーム」「戦争ごっこ」のような発想で子供たちに分かりやすく説明しようとした工夫がうかがえる。「戸外遊戯法」は好評で、発刊から3年後の明治21年(1888)には「改正戸外遊戯法」が出版された。持ちやすいポッケトブック版である。同書ではオフサイド・ルールが削除されている。競技の分かりやすさや簡略化を目指したものであろう。

明治34年(1901)2月、坪井は文部省から派遣されて体操研究のためフランス、イギリス、ドイツの体育事情を視察した。49歳。留学期間は1年間であった。50歳近い教授の体操研究のための政府派遣留学は彼が初めてである。サッカーの心身両面に与える教育的価値を再認識し帰朝後の普及を心に誓うのであった。翌年5月、アメリカ経由で帰国した。帰国後の彼は「改正普通体操法」「女子運動法」「行進運動法」等を相次いで発表し、スポーツ啓発家の第一人者となった。イギリス視察で習得したアソシエーション式フットボール(ア式蹴球と略称)を東京高等師範の学生に直接指導し、秋季運動会で初めて正式に公開した。当時の状況を高等師範の校友会誌は次のように伝えている。

「坪井教授の懇篤周到なる指導と部員の燃ゆるが如き熱心により、今や頻(しき)りに西洋諸国の著作雑誌を研究し、之を我が国民の気質体格に斟酌(しんしゃく)し我が国に最も適当なる一式を案出せんと努めつつあれば吾人は早晩斯技発達の快報を耳にするの日あらん」と書き、坪井の熱心な指導ぶりを伝えている。当時の生徒であった中村覚之助を中心に高等師範蹴球部が部長坪井の指導を受け英語で書名を書いたしゃれた装丁の「アソシエーションフットボール」と題するスポーツ指導書を大日本図書会社から出版して全国の学校に購読を勧めた。

サッカーの普及に大きな寄与をしたのである。彼はイギリスから持ち帰ったピンポンも紹介し普及に努めている。当時は高等師範の他に国内ではサッカーチームがなかったので、試合相手はいつも在日の外国人チームであった。東京・築地明石町の居留地にいた外国人チームやイギリス大使館職員チームそれに横浜のヨゼフ・カレッジの生徒チームが相手だった。ヨゼフ・カレッジは少年チームだったので時には勝つこともあったが、他の外国人チームにはいつも大敗を喫した。

サッカー指導・普及をライフワークに

日本のサッカーはその後高等師範やそこで活躍した学生が教員(主に旧制中学や高校)となって指導を行い全国に広まった。東京都、埼玉県、神奈川県、静岡県、千葉県、京都府など、今日「サッカー王国」として知られる都府県は高等師範卒業生の熱心な指導のたまものなのである。(ちなみに明治期の国際サッカー試合の日本代表は高等師範チームだった)。

「日本に体操ということが始まってから、今日に至る迄、私は終始、体操に関係して居ります。なお今後も死ぬ迄、私は体操に従事する積りでございます。(中略)私は体操を以て、一生を終る積りでございます」(「京都府教育雑誌」第149号)。明治37年(1904)8月、京都府教育会の依頼によって行った講演の一部である。この年『体操発達史』を刊行している。

明治42年(1909)、坪井は東京高等師範・東京女子師範の教授を退職した。57歳。学校体育の近代化に貢献した坪井玄道は大正11年(1922)11月2日、70歳で病没し、スポーツ(中でもサッカー)をライフワークとした生涯を閉じた。坪井の功績を高く評価した一人が、東京高等師範校長を長年務めた講道館創始者(柔道家)嘉納治五郎で「近代日本サッカーの父」と讃えた。

参考文献:「中世以降の市川」(市川市立歴史博物館)、筑波大学教授山本英作教授・同後藤光将教授の論文「坪井玄道によるアソシエーションフットボールの日本的解釈」(「スポーツ史研究」第16号)、日本サッカー協会資料。

(つづく)