阪神・淡路大震災で、最も大きな被害を受けた神戸市長田区。神戸市の死者・行方不明者4569人のうち、918人が長田区の住民だった。真野地区は長田区の南東部に位置する人口約4800人の小学校区だが、死者は19人にとどまった。その背景には、1965年からはじまったコミュニティ活動や、三ツ星ベルトなどの地元企業の献身的な取り組みがあった。真野地区のコミュニティ力の源泉を追った。


阪神・淡路大震災が発生した1995年1月17日、真野地区でも火災が発生した。しかし消防車が駆けつけたのは震災から6時間が経過した正午以降。およそ2700戸のうち43戸の火災を消し止めたのは、住民や地元企業の自衛消防団の活躍が大きかったという。「地震は来ない」と言われていた神戸では、日ごろ防災に対する意識は薄かった。それでも住民や地元企業が自主的にバケツリレーなどを繰り返し、消火活動に当たった。家屋倒壊についても、10代20代の自治会の若いメンバーが自主的に活動を開始し、地区の死亡者は19人にとどまった。決して少ない数ではないが、ほかの地区では300人の町でも数十人の死者を出したところもあり、この数字は他の地区と比べれば奇跡的と言える。誰からの指示がなくても自主的にメンバーが集まり、救助活動が行えた背景には、震災前に30年間続いたコミュニティ活動があった。

2015年1月17日に行われた訓練の様子

環境活動から始まったコミュニティ

真野地区のコミュニティ活動は1965年、公害に対する環境運動から始まった。真野地区には当時、長田区特有のケミカル産業、ゴム産業、メッキ産業などの有害物質を出す工場が集中しており、振動、悪臭、ばい煙とあらゆる公害が発生。環境汚染に起因する体調不良は「苅藻(かるも)ぜんそく」と呼ばれ、四日市ぜんそくの被害者から見ても「うちよりひどい」と言われるほどのものだった。

真野地区まちづくり推進会の清水光久氏

当時の自治会連合会長だった毛利芳蔵氏を中心に、当初は自分たちで清掃活動や花を植えるなどの環境美化活動を展開していたが、公害はなくならなかった。悲惨な状況を打破するため、報道機関に取材させ、その記事や大学教授の分析記事を神戸市役所から三ノ宮駅に続く地下通路に貼りだすなど、無規則な都市開発への抗議運動を展開。ついには行政・企業と住民による対話集会を開くにいたった。集会は、被害を受けた人なら誰でも参加可能とし、行政・企業と話し合った。集会を重ねるうち、企業も公害防止装置の設置などさまざまな改善を約束するようになった。 

真野地区まちづくり推進会の清水光久氏は当時を振り返り「今では訴訟に持ち込むのが一般的だが、毛利氏は企業と不毛な関係を作りたくなかった。公害を出していても地元の人が働く地元の企業。対話で連携と共生を図ろうとした」と話す。

高齢化と見守り活動 

1970年代には工業団地が新たにほかの地区で完成したこともあり、企業や工場は真野地区を離れていき、町は活気を失っていった。毛利氏は活気を取り戻すため、街の整備に乗り出す。出て行った工場の跡地を行政に購入してもらい、8つの公園をつくってもらった。この公園は阪神・淡路大震災の時にも住民の避難所として活用されたという。1980年には、通常は行政が行うことが多い街づくりのハード部分のプランを住民主体で作成し「20年後の将来像」として粘り強く神戸市の協力を得て国に働きかけた結果、多額の補助金を国からもらい、注目された。さらに地区を住宅街区と住工協調街区に分け、土地の売買や新規の工場の建設などは行政の建築確認申請を通っても、まちづくり推進会の承認を経ないと着工できない仕組みをつくった。この仕組みは現在でも続いている。

「真野はもともと行政や工場によって環境を破壊された町だが、それだけでは補助金は出なかった。地区にはまちづくり推進会や自治会をはじめ、老人会、婦人会などさまざまな組織があるが、それらが一致団結して住民の総意として(新たな街の整備に)合意したのが強みになっている。ここまで住民一致団結している地域は日本中探しても見当たらない」(清水氏)。

それでも、若者は流出し、全国的に見ても早いペースで高齢化は進んだ。世間では「孤独死」なども取りざたされた時期で、民生委員だけでは全ての対応ができない状況を見た毛利氏は、1980年代に1人暮らし老人の見守りをする「ゆうあい訪問ボランティアグループ」を立ち上げた。各町ごとに高齢者や要介護者の名簿を作り、担当者を決め、民生委員が状況を把握できるシステムを作った。月2回の給食サービスや入浴サービスなども、全国に先駆けてこの時に始まっている。これらのコミュニティ活動がすべて、震災時の人命救助活動や地区の迅速な復興につながっていった。

清水氏は、「それまで30年間続いてきたコミュニティ活動がなければ、阪神・淡路大震災時の迅速な救助活動や復興はありえなかった」と話す。

メガホンで訓練を呼びかける自治会長
真野小学校で丁ごとに集合

阪神・淡路大震災での対応 

「最も住民が避難しやすいところは小学校。小学校が一番コミュニティが発達して、民主主義的な運営をしている。東日本大震災でも小学校が避難所になったところが多かったが、それらはすべて阪神・淡路大震災の教訓からだ」と話すのは、長田区役所で震災の対応にあたった清水誠一氏。現在は区役所内にある「人・街・ながた震災資料室」で研究員を務め、震災の経験を伝えている。

阪神・淡路大震災では、地元の真野小学校に震災から3日目の1月19日に各自治会関係者による災害対策本部を設置。16人の町の自治会長が集まり、地区として物資や食料の配給などを行うことを決めた。震災3日目にはすでに食料の不足が発生し、町全体では十分な数が確保できないことがわかったからだ。被災を免れて自宅に待機している住民の分も含め、1日2回朝夕5000食を確保する方針を立てた。物資は本部管理で一元化することで、平等性を担保した。幸いなことに電気は震災当日の午後には復旧し、水も地域の井戸水などが飲料水として開放されたため、深刻な事態には陥らなかった。ただし、井戸などの水源から自分たちで水を運ばなければいけなかったため、高齢者にはつらい作業だったという。また、震災からほどなく、ミニコープ真野店が強盗に襲われる事態が発生。各自治会では自然発生的に夜警体制を整えた。このような取り組みが迅速に行われたのも、これまでの地区のコミュニティ活動が大いに役に立っているという。

震災から2カ月が経過した3月、清水氏とボランティアらで作成したのが復興まちづくりニュース「真野っこガンバレ!!」だ。発行を開始してから5年間、週刊で真野地区全戸に配布され、176号まで続いた。全世帯に配布するのは、各自治会の役目となった。震災から1年後に、「真野っこガンバレ!!」の縮刷版が発行された。地震発生当日から発行の3月までの50日間の詳細な記録も掲載した、当時を知るための貴重な冊子として現在も防災現場で活用されている。

写真を拡大  真野っこガンバレ!!

三ツ星ベルトの地域密着の取り組み

三ツ星ベルト総務部長の保井剛太郎氏

「震災が発生した時は、夜勤で60名前後が働いていた。会社の被災状況を確認した後、近隣住民の要請もあり手押しのポンプ車3台で地区の消火活動に当たった」と当時を振り返るのは、三ツ星ベルト総務部長の保井剛太郎氏。

三ツ星ベルト本社広告塔

三ツ星ベルトは1919年創業、長田区真野地区に本社を置く、日本有数の産業用ベルトメーカーだ。国内に販売拠点25カ所、海外にも北米や東南アジアなど9カ国で事業を展開している。同社の基本理念は「人を想い、地球を想う」。真野地区まちづくり推進会にも、長年参画してきた企業の1つだ。本社広告塔の「三ツ星ベルト」の文字は、震災時に駆けつけたボランティアの道しるべになったことでも有名だ。

もともと地域との共生を重要視してきた同社は、震災前から体育館を地域住民に開放して剣道教室を開くなど、地域に密着した活動を行ってきた。近隣の住民は、「過去に住宅火災があった時に、三ツ星ベルトの自衛消防隊が駆け付けてくれ、放水してくれたのを思いだし、出動をお願いした」と当時のニュースの中で語っている。

震災時は火が燃え盛るなか、断水もあって消火水が不足した。三ツ星ベルトは工業用水を地下に240トン貯めていたが、それらも全てなくなり、最後は井戸水を使って消火にあたったという。

体育館は、避難所としても活用された。発生当日から4月末まで約400人が避難生活を送った。震災当日に、体育館を避難所として使わせてほしいと要請したのは剣道教室の世話役だった近隣住民。ここでも普段からのコミュニティを通じた信頼関係が役に立っている。

実は同社は、1992年に本社を神戸ハーバーランドに移転しており、震災発生時には真野地区に工場と研究所があるのみだった。震災を契機に、真野地区の住民が地域産業活性化のため本社を真野に戻してもらうよう社長に要請したところ、快諾を得て2000年に真野地区に本社が戻った。現在も、真野地区の三ツ星ベルトと総合防災訓練などを共同で行っている。ハザードマップでは、真野地区の津波想定の高さは4.0m、津波到達予想時間は90分。近隣の保育所・小学校も「津波が発生したら、北へ逃げる」を合言葉に、津波が発生した場合には子どもを水平避難させるという。現在、広告塔のある工場建屋は神戸市と津波一時避難所の協定を結んでおり、緊急時は地域住民に垂直避難所として開放する。三ツ星ベルトと地域住民の絆は震災を乗り越え、さらに強く成長している。

小学校区を中心とした防災活動

写真を拡大 真野地区地震・津波防災マニュアル

現在、真野地区では、真野地区防災福祉コミュニティ(まちづくり推進会)を中心に、地震・津波防災マニュアルやハザードマップを作成するほか、津波や震災を想定した避難訓練を行っている。

震災から20年にあたる2015年1月17日に行われた避難訓練では、南海トラフ地震・津波発生を想定し、8時46分に各町のスピー朝カーや拡声器で訓練放送を開始。お年寄りや要援護者は本人の申し出という形をとり、実名を挙げて、一人ひとりに対して民生委員やボランティアが「要援護者マッチング支援者」となり要援護者に声かけを行った。安否が確認できると、あらかじめ配っていたラベルを持ち帰ることで後に名簿と照らし合わせることができるようにした。訓練には、要援護者285人のうち263人が参加。避難者名簿の作成や、安否確認ラベルの掲示、避難者名簿の集計なども行った。杖をついている要援護者も自力で2階に上がってもらい、有事の垂直避難の可能性も確認した。

(上) 地域住民とともにバケツリレー訓練   (下) 約400人が避難生活を送った三ツ星ベルトの体育館
 

真野地区
人口:約4800人
面積:約40ヘクタール
特徴:商店・工場・住宅が混在した典型的な下町区域だが、1965年の公害問題を契機にコミュニティ活動が活発化。阪神・淡路大震災時にはコミュニティが機能し、消火活動や倒壊家屋からの救助活動に地域住民と地元企業が一体となって取り組み、震災後3日目には各自治会代表者による災害対策本部が設置され、地域の復旧にあたった。