2007年よりBCPと危機管理の専門誌として年6回発行してきましたリスク対策.comですが、2016年11月25日号が最終号となりました。これまでご愛読いただいた読者の皆様に心からお礼申し上げます。そもそも「com」というのは、地域(community)と企業(company)を守る人のための情報誌という意味合いで付けた名前ですが、これからは本当の「ドットコム」メディアとして、これまで以上に多くの方に読んでいただけるよう情報を発信していきますので、引き続き、私たちのウェブサイトで記事を読んでいただければ幸いです。

 

さて、2007年というのは、阪神・淡路大震災から12年目にあたる年でした。今思えば10 年の節目で創刊していれば良かったと思うのですが、当時は亥年は災害が多いと言われており、干支の節目に、防災や危機管理のコンテンツを発信していく媒体を立ち上げたかったというのが創刊の1つ目の理由です。

1995年は阪神・淡路大震災に加え、3月には地下鉄サリン事件がありました。1983年は日本海中部地震、もう少し遡ると1959年は伊勢湾台風、もっと前だと1923年が関東大震災、1707年は宝永の大噴火があった年です。いずれも歴史に残る大きな災害ばかり。

そう考えると、東日本大震災以降は毎年のように自然災害で多くの命が失われており、「亥年の悪夢」どころか、毎年何かが起きる異常な時代に突入してしまったのかもしれません。

読者の皆様からは「もともと御社は防災や危機管理の知識があったのか」とよく聞かれますが、ありません。私もリスク対策.comも、読者や取材させていただいた皆様に育てていただいたと心から感謝しております。

ただし、新建新聞社という会社は、もともと建設を通じて、社会のために貢献することを企業理念に据えており、特に1995年の阪神・淡路大震災以降は、建設や街づくりにおける防災対策に力を入れて取材をしてきました。

一方で、建物や構造物だけで人々や組織の安全を守ることができないということが認識されてきたのも、この頃からではないかと思います。つまり、被災して建物が使えなくなっても事業が継続できるようにするBCP(Business Continuity Plan)やレジリエンス(被災してもしなやかに回復する)といった考え方が、ちょうど世の中に広がり始めた時期でもありました。

防災活動は地域活性化につながる

2つ目の理由は、リスク対策.comを創刊する前、私は、わが社の新しいプロジェクトとして、全国の地域活性化の取り組みを取材させていただいていた時期があるのですが、活性化している地域というのは、当然、少子高齢化や産業の衰退、あるいは地域経済の衰退、中心市街地の衰退など、さまざまな危機を乗り越えて活性化しているのですが、この危機が活性化につながるプロセスをうまく応用することができれば、防災活動などを通じて地域や企業を元気にすることができるのではないかと考えたことがあります。

地域が危機に直面した時、あるリーダーのもとで、住民一人ひとりが危機感を認識し、地域全体が目指すべき新たな“まち”の姿を共有し、その目標に向かって、団結して取り組めるようになることで地域全体のブランド力が高まっていくというのが、私の考える地域活性化のプロセスです。そのプロセスは、防災活動、あるいは企業に置き換えるならBCP活動ともよく似ています。大切なことは、危機に直面していること、あるいは直面するだろうことを、どれだけの人が認識しているのか、同じベクトルに向かって協力して取り組んでいけるかだと思うのです。

1社が止まれば全産業が止まる

中越沖地震後、照明や機械設備の耐震固定を行ったリケンの工場内。強く固定しすぎると逆に壊れやすくなる機器もあり、さまざまな方法が研究された

さて、話を2007年に戻しますと、この年は、能登半島地震と新潟県中越沖地震という大きな地震が起きました。

新潟県の地震といえば、2004年の中越地震の方が記憶に残っているという人が多いかもしれませんが、新潟県中越沖地震は、国内のBCPの発展においては非常に大きなインパクトをもたらした災害でした。柏崎市に主力工場を持つ自動車部品メーカー「リケン」が被災し、1週間ほど工場が停止し、その1週間で、トヨタ、日産、ホンダなど主要自動車メーカーすべてが生産をストップし、さらに、メーカーに部品を納めている全国各地の自動車部品を製造する業者、それらを運ぶ物流業者にまで影響が及びました。

「影響」という言葉は抽象的でイメージしにくいかもしれませんが、例えば普段通勤で混み合っている自動車工場への道が、朝も夕方もほとんど車が通らない、こんな状況が全国各地で起きたわけです。

いわゆるサプライチェーンを含めた事業継続体制は、東日本大震災でも、タイで起きた大洪水でも、そして今年の熊本地震でも課題となっていますが、世界中が物流網でつながっている今、いかにサプライチェーン全体のBCPを強化していけばいいのかということは、これから先も難しい問題だと思います。

取引先に力ずくでBCPに取り組ませるのではなく、サプライチェーン全体として目標を共有して、一緒に取り組んでいく、取り組めるようにしていくことが大切だということを、この災害から学ばせてもらいました。

企業単体のBCPについても、例えばBCPの策定では、会社の生命線として優先的に継続・復旧させなくてはいけない事業活動を特定する作業を行う必要がありますが、教科書的には、会社の売り上げや、社会・市場に対する影響、あるいは顧客との約束などを分析することによって事業活動を選定し、早期に再開できるよう対策を講じるわけです。

ところが、数千種類もの部品を製造しているような工場で、しかもすべての製品が市場の占有率が高く、顧客から早期納品を求められているような工場については、事業活動を特定したとしても、それを計画通りに達成させることは非常に難しいということを教えられました。

もう1つ、地域と企業の関係で言えば、被災したリケンの工場の復旧支援に、全国各地から自動車メーカーらのスタッフが駆け付けたのですが、彼らはリケンだけでなく、周辺の工場も支援し、病院や避難所にも足を運び、不足物資の調達を手伝いました。地域の復興なくして企業の復興はありえないことを、支援する側がしっかり理解していたのです。

もし仮に、リケンだけを支援して引き返していたら周辺地域の人はどう感じるでしょうか?この地域と企業の関係は、BCPが普及してきた今だからこそ、これまで以上に考えておかねばならない問題だと思います。自社のしていることが、顧客だけでなく、サプライヤーや地域に対してどのような影響を与えているのか“ 木を見て、同時に森も見る”目を持たなくてはなりません。

予測には限界がある

3.11の前で、もう1つ印象に残っている災害が2009年4月にパンデミック(世界流行)を引き起こした新型インフルエンザA 型H1N1です。このインフルエンザが発生する以前、先進的な企業・自治体では、かなり真剣に新型インフルエンザ対策に取り組んでいましたが、多くの組織が想定していたのは、H1N1とは違い、致死率が高い「強毒性」(高病原性)とされる鳥インフルエンザが変異したものでした。そのため、各社のBCPでは、WHO(世界保健機関)や厚生労働省の発表に合わせ、出張の自粛や、海外駐在員や家族の帰国、海外出張者の帰国後一定期間の出社の自粛など、さまざまな対策を講じていたものの、実際の対応は手探りで、柔軟性という点に課題が残りました。一方、アメリカでは、「シビアリティ・インデックス」と呼ばれる致死率の高さに応じた計画の策定を推奨していて、危機管理の考え方の違いに驚かされたことを覚えています。

ただ、当時(パンデミックの発生前)と比べると、今の方が、社会全体としてインフルエンザに対する危機感は薄らいでいるように感じています。首都直下地震や南海トラフ地震の対策に優先的に取り組まれたい気持ちは理解できますが、新型インフルエンザも過去の歴史を振り返れば10年~40年周期で確実にパンデミックが起きているわけです。2020年の五輪の直前に再流行しても何ら不思議はありません。

もう1つ、当時の取材で感じたことは、災害の姿をあらかじめ明確に予測することは難しいということです。毒性の強さ、感染のスピード、感染期間の長さなどを明確に予測することができるはずがありません。予測できないなら、新型インフルエンザが発生してから考えればいいというわけにはいきません。予測できないからこそ、予測には限界があることを認識し、被害が発生した際の対応の仕方までを考えておく必要があるということです。

ただし、計画はいくらでもきれいに書くことができます。これがBCPの落とし穴でもあります。「感染者が出たら、その事務所のスタッフをそっくり入れ替える」「別の事務所から業務を遂行する」「在宅から勤務をする」「欠勤者の業務を他のスタッフがカバーする」等々。どれ1つとっても簡単にできることではありませんし、ましてや、これらの対策を1つのシナリオと紐づけて「こういう状態になったらこういう方法を採る」と決めてみたところで、その通りになるはずも、できるはずもありません。ですから、平時から少しずつできる対策を増やし、感染状況や社会の状況、自社の状況を考慮した上で、最適な手法を選んで対策できるようにしておくことが重要だと思います。平時にやってないことが、緊急時に突然できるはずがないのですから。

地震でも、「〇〇工場が被災したら別の工場に社員を移して代替生産をする」とか「本社が使えなくなったら、〇〇支店で業務を行う」など、いずれも有効な方法だと思いますが、実際に実行することは、言うほど楽ではありません。果たして何人の社員が移れるのか、資機材は足りるのか、いくら余計に費用がかかるのか、何日間その状況が維持できるのか、社員が生活する場は確保できるのかなど、その計画が現時点でどのくらい実効性を伴っているのかを絶えず見直していくことが大切だと思います。

壊滅的被害を克服した奇跡の企業

3.11については、改めて書くまでもないでしょう。この雑誌を立ち上げてから、最も多くの取材時間を費やしてきました。同時に、一番自分の無力さを感じた瞬間でもあります。

多くのことが思い出されますが、最も心に残っているのはオイルプラントナトリという、工場が丸ごと津波で壊滅したにもかかわらず、BCPを策定していたことで被災後1週間から業務を再開した奇跡とも言える中小企業の事例です。

工場全体が壊滅的な被害を受けながらも1週間で事業を再開したオイルプラントナトリ

この会社は、東日本大震災が起きる直前の2011年1月にBCPを策定したばかりでした。その中身は、被災時に優先的に継続すべき「中核事業(特に重要な事業)」や、その事業を行うために必要な経営資源、代替となる資源などがわかりやすく整理されていて、そのことにより被災後も復旧の手順が明確になったといいます。

ただし、私がそれ以上に注目したのは初動でした。同社のBCPでは、津波で被災するということはまったく想定されておらず、災害時の避難計画としては工場の駐車場で安全待機することになっていました。リスクアセスメント的には不十分だったと指摘されても仕方ないでしょう。ただし、県も市も津波の高さを想定できていなかったのです。それにも関わらず、停電の中、非常用発電機でテレビとラジオをつけ大きな津波がくるという情報を知り、社長と常務が中心となり、全従業員を3㎞程先まで避難させたことで一人の犠牲者も出しませんでした。運搬中のドライバーもいましたが、彼らも自己判断により適切な避難行動をとったのです。

津波により被災した石巻市沿岸部の門脇町・南浜町地区。口先だけでBCPという言葉が言えなくなった

(続く)