戊辰戦争最後の舞台、北海道函館市の五稜郭(出典:Wikimedia Commons)

慶応4年(1868)幕末の鳥羽伏見の戦いから明治2年(1869年)の明治維新までの1年半の間、日本列島を二分して戦われた戊辰戦争の大団円(クライマックス)は箱館戦争である。新政府軍(西軍)の攻撃にあえなく投降し「北海道独立」の夢が絶たれた旧幕府軍(東軍)の「敗北の構図」を見てみよう。

旧幕府軍、北海道上陸

旧幕府海軍副総裁・榎本武揚が率いる幕府艦隊がめざした北海道の上陸地点は箱館(現函館)をあえて外し、その北方40km、亀田半島を回り込んだ内浦湾(噴火湾)の鷲ノ木浜であった。運悪く海は荒れて、艦隊は散りじりになったが、長鯨・開陽の2隻は慶応4年(1868)10月19日に無事着帆した。目の前に現れたのは「甲板上に出て四方を望むに、積雪山を埋め、人家も玲瓏(れいろう)として実に銀世界の景なり」(『南柯紀行』著・大鳥圭介)と感嘆されるようなエキゾチックな雪の新天地だった。この日から7カ月の間、東軍歩兵隊の最後の奮戦が続けられる。

道南に上陸した旧幕府勢力を以下「榎本軍」と呼称する。10月21日、全軍鷲ノ木に揚陸した榎本軍は、二手に分かれて箱館に迫り、10月25日、箱館府にある五稜郭を奪取した。凄まじい寒気に襲われたが、洋式の歩兵隊は水を得た魚のように活躍した。士気は高かった。

歩兵たちはすっかり戦場慣れしている。戦地の広さを見込み、横へ横へと広がって包み込む。指揮官が腕を大きくぐるぐる回すと、その方向にすばしこく展開する。接近すると突撃戦に持ち込む。守備兵は兵力が貧弱で銃砲装備も劣悪であり、知事・清水谷公考(しみずだに・きんなる)一行は、さしたる抵抗もできずに津軽海峡を渡って青森に逃れた。榎本軍は日の丸の旗を立て、ラッパを吹き鳴らして五稜郭に乗り込んだ。

五稜郭は敵をすべての方角からとらえられる星型の西洋式城郭である。箱館の市街地から東北東へ5kmほどの距離にある。旧幕時代の元治元年(1864)に完成して箱館奉行所が入っていたが、幕府瓦解の後、新政府の出先機関である箱館府が置かれていたのである。堡塁には、安政元年(1854)伊豆下田沖で遭難したロシア軍艦ディアナ号の二十四斤砲が装備されていた。

榎本軍は旧幕府若年寄の永井尚志(なおむね)を箱館奉行にして、市中の治安を維持した。運上所(税関)と箱館湾入口の弁天台場には日の丸の旗が掲げられた。この旗章は、当時国際貿易港だった箱館に駐在する外国公館に権力の移管を示すものであったが、しばらく後に榎本政権(「北海道独立国」)が樹立されてからは、「国旗」になり、菊花の紋章の旗を掲げて討伐に来る「官軍」と戦うことになる。函館は安政2年(1855)の開港後、短期間に国際貿易港として急速に発展し、一大繁昌地になっていた。11月1日、土方歳三の率いる新撰組・彰義隊・額兵隊(仙台藩洋式歩兵隊)などの諸隊が松前城を陥落させる。ここまでは破竹の勢いだった。が、11月15日、江刺沖で最新鋭艦・開陽丸を座礁・沈没させてしまった。榎本海軍の損失は計り知れないほど大きかった。「敗北の構図」の始まりであった。

箱館では12月15日、榎本武揚を首班とする臨時政府が成立していた。総裁をはじめ主要な役職は陸海軍の士官以上の投票で選出された。日本初の投票による首脳部の選出であった。ここに榎本や大鳥らの先進的な感性を見る。

成立した箱館政権の中枢部は以下のような人事であった。
総裁:榎本武揚、副総裁:松平太郎、海軍奉行:荒井郁之助、陸軍奉行:大鳥圭介、同並:土方歳三、箱館奉行:永井玄蕃、同並:中島三郎助(以下略)。

陸軍奉行大鳥が苦心したのは、陸軍の強化・充実であった。「南柯紀行」(著・大鳥)には「12月頃より五稜郭にて生兵(せいへい、新兵)を募り、140から150人を得て、これを歩・砲の2種に分かちて訓練せしが、たちまち練達して熟兵に劣らざるに至れり」とか、「大小の武器に乏しく、大いに困却せしが、器械方官重・貝塚らその外の者、勉強工夫によりて漸く不足補うことを得たり」との記述がある。箱館でも歩兵用の小銃製造が軌道に乗った。歩兵の給料も定められた。月給制だった。給料はたちまち遊郭とバクチに消えた。