日中友好と留学生受け入れ

嘉納ほど中国との善隣友好を望み実践した明治期の知識人を私は知らない(本連載ですでに紹介した)。19世紀末、日本の文部兼外務大臣西園寺公望の委託を受けて、高等師範校長嘉納は中国から日本に留学する公使館生(留学生)を受け入れる宏文院を自費で創設した。嘉納は清朝末の日中教育交流史に大きな足跡を残すのである。

19世紀末から20世紀初頭、日中関係は逆転し、日本は明治維新後東アジアに侵略を企て、日清戦争後軍国主義の道を歩み始めた。ヨーロッパ列強の中国分割の列にも加わった。嘉納は大いに憂えた。中国と日本の関係は重大であり、中国が国力を保てなければ、日本もそれを全うできない。存亡を相互に依存する近隣関係は、日本が強大になったからには、かつては日本の文明の恩人であり、衰退している清朝(中国)に対して拱手傍観するわけにはいかない。嘉納は言う。

「そもそも日本と清国は僅かに一水を隔てるのみで、かつてその制度文物を輸入し、以って我が昔日の文明を作ることで、今日我国は東洋の先進国となった。彼我の関係は甚だ親密であり、決して欧米諸国の比ではない。我国の清国に対するは、これを扶助することに尽力するのみである。且つ清国が保全され発達することは東洋和平の大局を維持し得るものであり、ロシアの利益から見ても、また、清国のために尽力しないわけにはいかないのだ」。日本は中国と友好関係を保持しなければならない。嘉納が堅持した基本的な日中関係の出発点であった。

嘉納は、洋学・漢学双方の素養をもつ教養人として中国の教育改革に目を向け、その支援活動に邁進した。だが彼の思想や行動は決して日本のインテリ層がすべて認めるところではなく、異なる観点を持つ各界人士の懐疑や非難を引き起こしたが、その大半が誤解だった。嘉納は語る。

「私が支那(中国)のために教育を興すのは、支那を強くして日本を弱くしようと欲しているのではなく、世界の一等国として列し、相互に助け、共に一層強くなって、白人と争うことを欲しているのである。支那の教育が興った後、日本はどうして再び進歩することなく、なお今日の日本のごとくであることがあろうか」。

軍国主義に与(くみ)しない嘉納は、中国の平和があってはじめてアジアの平和が保て、アジアの平和があってはじめて日本の平和を維持できると考えた。中国が西洋支配から脱却し、アジア及び世界の平和に貢献することを熱望したのであり、これが中国の教育改革に参与した重要な動機であった。彼は中国人留学生を受け入れる宏文学院を帝都東京に創設したねらいを語る。

「私は今宏文学院を設立し、清国留学生に先ず日本語及び普通教育を教授している。これをもって各種専門学校に入学する準備とし、また別に速成科を作って期間を短縮して専門の学を修めさせる。総じて言えば、我国人はよく清国に注目し清国に赴き一切の事柄を調査し、国内にあってはまた清国の人を信頼し、もって両国関係の事業を謀り、両国の利益を図るべきであり、これが私の希望するものである」。ここに嘉納の「自他共栄」の精神を見る。明治37年(1904)、時に嘉納45歳である。<教育の事、天下これより偉なるは無く、天下これより楽しきは無し>。嘉納の信念である。

宏文学院で学んだ中国人留学生(弁髪姿も少なくない)は実に約8000人にものぼる。留学生の多くは帰国後指導的教育者となった。後に高名な文学者となる魯迅も留学生の一人である。

参考文献:「嘉納治五郎」(講道館)、「中国人日本留学史研究の現段階」(大里浩秋ら編)、筑波大学附属図書館文献。

(つづく)