ニューヨークのチーム・オブ・チームズ

上陸の前週に、OEMはグレートマシンを稼働させ、チーム・オブ・チームズを召集した。サンディが到着する時までに、多くの大規模な現場活動を実施していた。全て、同時に。

ロジスティックスチームはOEMが指揮して、われわれに何が必要なのかを見つけ、正しいものを正しい時間に正しい場所に届けるために、「システム」の奥深くまで入っていた。最初の週に、発電機230個を病院、介護施設、公営住宅団地に配備した。

排水チームは陸軍工兵隊と海軍とニューヨーク市都市交通局によって率いられ、がれきに溢れた街路を通って水浸しの道路やトンネルから排水させ、地下鉄を稼働させるために大型ポンプを設置していた。

がれき除去チームはニューヨーク市衛生局に率いられ、何百万トンのがれきを収集していた。

倒木チームはニューヨーク市公園局に指揮され、ストームで被災した2万本以上の樹木を除去していた。

緊急避難チームは、ホームレス局に指揮され、24時間以内に100カ所以上の公立学校を緊急避難シェルターに転換することを開始した。これらの間に合わせのシェルターの要員には、必要な訓練を受けたボタンティアが当てられた。ピーク時には、8000人以上が収容された。

サンディの最も恐ろしい武器

2012年の終わりの長い期間、クライシスの震央地は、ブルックリンのダウンタウンのカムデン・プラザに設置されたグレートマシン本部であった。副長官ヘンリー・ジャクソンの発案である6万5000スクエア・フィート(6000平方メートル)の施設が誇る記者会見室と最先端技術を備えた司令室と緊急事態対応センターを持っていた。

どのオフィスも直ちに人で溢れかえり、通路も小室も、地下階から上層階まで、チームですし詰め状態だった。われわれは臨時のトレーラーを何台も持ち込み、外に駐車した。市内の他の至る所に、ブルックリンのメトロテック、シティ・フィールド、クイーンズのOEMの倉庫に、もっと多くチームを配置した。巨大な埠頭92の施設が思い出されて懐かしかった。

われわれは、十分に大規模に、かつ十分に迅速に対応できなかったからだ。

われわれの主眼は初期段階の数日の災害対応であったが、大規模に遂行しなければならない全ての複雑なオペレーションはハリケーンの上陸前の数日と上陸後であった。

われわれの復旧計画は実行可能で力強かったが、これらのチームを指揮するOEM要員は、災害対応モード、たとえば、排水、緊急時電力確保、シェルター避難にかかりっきりであった。

ハリケーンの衝撃が高まってくる最中に、われわれは復旧チームを指揮するリーダーがいなくなってしまったのだ。そこで、6年近く準備したにもかかわらず、やるべき仕事の後手を引いてしまった。われわれはチームと計画を持っていた。しかし、チームリーダーが足りなかったのである。

幸運にも、ニューヨーク市政府には大勢のチームリーダーが残っていた。そのうちの多数が真っ先にニューヨークの市庁舎から到着し始めた。

副市長のキャス・ホロウェイとリンダ・ギッブは彼らのチームと共に、市の内外からの数十人の才能のあるスタッフと専門家を伴って駆けつけた。

ホロウェイはどの段階においてもわれわれと共にいた。われわれの市庁舎における第一連絡先として、彼は最初のハリケーン予報の時からシチュエーション室にわれわれの活動をわれわれと同等に熟知していた。沿岸ストーム対策計画の初期推進者として、彼は資金を取り付け、大義名分をもって手強い長官達に彼らが必要とする以上のリソースを了承させていた。

ストームが高まる中で、ホロウェイとギッブはニューヨーク内や全世界から、最良のマネジャーと最も賢い頭脳を引き入れはじめた。

彼らは、情報管理プロセスをスーパーチャージした。これらの新しいマネジャーを中心に、特に食糧の配給、近隣地域復旧センター、家族医療介護プログラムのような重要な復旧活動にチームを編成した。ギッブのチームのひとつが、シチュエーション室を食糧と水の配給活動の司令所に転換し、すぐに食べられる210万食以上の食事と92.5万本の飲料水ボトルを被災地域に配給した。他のチームは、食糧、水、他の用品を直接被災宅に配達した。三番目のチームは、直ちに助けを必要とする被災した個人や家族に対する個別災害対応に集中して担当した。

余波

どのような指標で見ても、サンディは前例がなく、非常に多くの人々に影響を与えた。このストームでニューヨークでは、少なくとも53人が死亡した。住宅数千棟と自動車25万台が破壊され、ニューヨークの経済的な損害額は190億ドル以上と見積もられた。

そして、水が引いた後、ニューヨーカーは後始末に追われた。

「本当の悲惨さがより明らかになってくると、全てが絶望的になるまでに時間はかからなかった 」
「電気、熱エネルギー、食糧が届くのが遅れる一時間ごとに、怒りが盛り上がった」
「アルファベット・シティ、レッドフック、スタテン島でも、人々は誰もが消火栓から水や、大型ごみ箱からゴミ漁りをして、何杯のもバケツを一杯にしなければならなったのだ」
「マンハッタン区の外からのニュースは特に少なく、人々はガソリンを手に入れるのを争っていた」
             ―2012年11月4日 ニューヨーク・マガジン


私がこれを書いている時にも、個人や家族、ある意味で市自体も、この壊滅的な自然災害からの復旧の途上にあり、今後数年は続くであろう。