嘉納が帰国途中に客死した氷川丸(横浜港、提供:高崎氏)

先駆的な教育改革者

嘉納治五郎は教育者としても獅子奮迅の活躍をした。1882年(明治15年)1月から学習院教頭、1893年(明治26年)から通算約25年間(四半世紀間)も東京高等師範学校(現筑波大学、筑波大学キャンパス内に立像が建っている)の校長ならびに東京高等師範学校附属中学校(現筑波大学附属中学校・高等学校)校長を務めた。高等師範校長として大学院を出たばかりの夏目漱石を英語教師として招いている。

旧制第五高等中学校(現・熊本大学)校長として小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)を招聘した。この頃、旧熊本藩の体術師範だった星野九門(四天流柔術)とも交流している。

嘉納自身が柔道の根本精神として唱えた「精力善用」「自他共栄」を校是とした旧制灘中学校(現・灘中学校・高等学校)の設立にも関わった。英才の集う同校は柔道が必修科目であり、校歌には嘉納精神が歌われている。他にも、今日の日本女子大学の創立委員にも加わる。文部省参事官、普通学務局長、宮内省御用掛なども兼務した。彼は「教育が天職」と確信していた。

1882年には英語学校「弘文館」を南神保町に創立し、次いで1896年には清国からの中国人留学生の受け入れにも努め、留学生のために1899年に牛込に弘文学院(校長・松本亀次郎)を開いた。柔道も指導した。後に文学革命の旗手となる魯迅もここで学び、治五郎に師事した。魯迅の留学については2007年(平成19年)、中国国務院総理・温家宝が来日した際、温の国会演説でもとり挙げられた。嘉納は韓国の留学生も受け入れた。

1887年(明治20年)、井上円了が開設した哲学館(現東洋大学)で講師となる。棚橋一郎とともに倫理学科目を担当し、同科の『哲学館講義録』を共著で執筆した。1898年(明治31年)、全国の旧制中学の必修科目として柔道が採用された。

国際人、「幻の」東京オリンピック

日本の近代スポーツの道を開いた嘉納は、1909年(明治42年)にはフランスのクーベルタン男爵に懇望されて、東洋初のIOC委員となる。1911年(明治44年)に大日本体育協会(現日本体育協会)を設立してその会長となる。1912年(大正元年)、日本が初参加したストックホルムオリンピックでは団長として参加した。1936年(昭和11年)のIOC総会で、1940年(昭和15年)の東京オリンピックの招致に成功した。快挙である(嘉納の海外渡航は10回を超える。航空機のない当時としては異例な数字である)。遺憾なことに、戦争の激化により、オリンピック開催は返上に追い込まれる。

1938年(昭和13年)のカイロ(エジプト)でのIOC総会からの帰国途上、5月4日(横浜到着の2日前)日本郵船の大型客船氷川丸の船内で急性肺炎により急逝した。遺体は氷詰にして無言の帰国をした。享年77歳。生前の功績に対し勲一等旭日大綬章が授与された。彼は終生講道館館長であった。終生柔道現役師範であった。墓は千葉県松戸市の東京都立八柱霊園にある。鳥居を構えた楚々とした奥つ城である。

参考文献:「嘉納治五郎」(講道館)、「気概と行動の教育者 嘉納治五郎」(筑波大学出版会)、「日本武道と東洋思想」(寒川恒夫)、講道館刊行資料など

(つづく)