夏目漱石(出典:Wikimedia Commons

建築家を志望したが…

再度、夏目漱石を論じる。夏目漱石(1867~1916)が近現代日本を代表する国民的作家であることを否定する人はいないだろう。漱石は本名金之助、江戸・牛込の名主の家に生まれた。東京帝国大英文科卒。東京高等師範学校(現筑波大)、松山中学(現松山東高)、第五高校(現熊本大)の英語教師を経て、イギリスに2年間留学した。帰国後東京帝大講師となり、後に朝日新聞に入社して新聞小説を連載する。主な作品に「吾輩は猫である」「坊っちゃん」「草枕」「三四郎」「それから」「こころ」「道草」「明暗」などがある。名作ばかりである。享年49歳。

■前回「文豪漱石の博士号辞退と反権威主義」
http://www.risktaisaku.com/articles/-/4143

漱石作品の愛読者には知識人や文化人が多く、文科系の大学学部を卒業した方が多いのは当然だとしても、理工科系の学部を出た研究者やエンジニアの方で熱烈なファンも少なくない。大学の卒論も含めて1年間に発表される論文(「漱石論」)は100を下らないという。中には理工科系の研究者が論じた漱石論も含まれている様である。「国民的作家」と呼ばれる所以(ゆえん)だが、なぜ理工科系の頭脳を持つ方々に漱石作品はアピールするのだろうか。どうやら、漱石が日本の明治期以降の文学者の中では、ずば抜けて理工科的理解力にひいでていたことによるようだ(もうひとりの文豪森鴎外は軍医(医学者)でもあり当然のことながら理工科的理解力に優れていた)。

漱石は学生時代数学を得意にしていた。東京大学予備門予科生で17歳だった明治17年(1884)12月の漱石(この時漱石の名前は、養子となった家の姓に従い、塩原金之助と記載されている)の学業成績が残されている。それによると、漱石の学業ぶりは次の通りである。「修身学77.5、和漢文59.0、英文解釈66.0、文法・作文75.5、日本歴史75.0、支那歴史68.0、和漢作文70.5、代数学78.9、幾何学86.9、地文学(地球上に起る諸現象の研究、天文学の反対語)73.0、体操78.1、平均点73.5」。

語学や文学よりも数学の成績の方がよいことに気づく。特に、幾何学の86.5という高得点は見事なものである。翌年の成績を見ると、代数の得点が93.5へと跳ね上がっている。クラスでトップだったろう。後年、漱石は、当時を回顧した明治39年(1906)の談話「落第」の中で述懐している。

「人間と言うものは考え直すと妙なもので、真面目になって勉強すれば、今まで少しも分からなかった数学なども非常に出来る様になって、或る日親睦会の席上で誰は何科へ行くだろう誰は何科へ行くだろうと投票した時に、僕は理科に行く者として投票された位であった」(以下、引用は岩波版「漱石全集」による。現代語表記とする)。

周囲の眼だけではなく、本人も一時、工科へ進学し、建築を学ぼうとしたことが知られている。引用した談話の続きには、「僕は其頃ピラミッドでも建てる様な心算(つもり)で居た」と、若者らしい夢を抱いていたことが披露されている。建築家になることは「職業を択んで日常欠く可からざる必要な仕事をすれば、強いて変人を改めずにやっていくことができ・・・・美術的なことが好きであるから、実用と共に建築を美術的にしてみようと思った」(「落第」)からであり、換言すれば、経済的にも安定し、社会的に有用で、しかも芸術家として自己実現ができる職業として建築家をみたからであった。この考えは、友人の哲学青年米山保三郎に「日本でどんなに腕を揮ったって、セント・ポールの大寺院の様な建築を天下後世に残すことは出来ない」(「処女追懐談」)から、それより文学者になったほうがよい、と説得されて思い止まり英文学を専攻するのである。