東日本大震災において災害協定はどのように履行されたのか。支援物資の輸送を担ったトラック業界と、被災後の道路復旧やがれき撤去などにあたった建設業会の対応を追った。


前例のない広域大災害だった3.11
緊急支援物資輸送に業界が総力を結集

全日本トラック協会、地方トラック協会



ひとたび大災害が起きて、被災者が避難生活を余儀なくされた場合、避難所生活に欠かせないのが、食料や水、毛布、仮設トイレといった生活物資。これらの緊急支援物資を避難所に届ける役割を中心的に担っているのがトラック業界だ。先の東日本大震災における緊急支援物資輸送でも、食料の約7割、飲料水の約6割をトラック輸送が占めたという。

阪神・淡路大震災や新潟県中越地震といった過去の主要な災害では、被災県が各地域のトラック協会との協定に基づき支援物資を配送。加えて災害対策基本法における指定機関の日本通運がサポートする形でまかなってきた。

ところが1000年に1度とされる東日本大震災は、広域かつ避難者数が47万人に及ぶなど被災規模も大きかったことから、既成の災害協定の枠組みを超えて全日本トラック協会(全ト協)と大手運送会社、政府が全面に乗り出す形となった。

公益社団法人全日本トラック協会の細野高弘専務理事に、東日本大震災時における緊急支援物資輸送の取り組みについて聞いた。

災害協定の想定を覆す大規模災害 
東日本大震災の発生以前、戦後最大の被害を出した阪神・淡路大震災であっても、東日本大震災と同規模の避難所生活を強いられたのは、兵庫県と大阪府のわずか2府県のみで、緊急支援物資輸送に関する災害協定は、比較的狭いエリア(ほぼ1県単位)を前提としていた。このことから、災害協定に基づく緊急支援物資輸送の基本的な枠組みは、被災都道府県が主導する形で、各地域のトラック協会もしくは当該地域の指定運送会社と連携して地方調達の物資輸送を担うほか、政府調達物資などの広域輸送を業界最大手の日本通運が担う形で対応してきた。このほか、被災県の隣県と当該地域のトラック協会も応援するのが常だという。 

しかしながら、東日本大震災は、被災の対象範囲が南北500km、東西200kmと広域だったことと、主たる被災県が宮城、岩手、福島の3県にわたり、ピーク時の避難所数が約2400カ所、避難者数が約47万人(阪神・淡路大震災は約32万人)、避難者の食事が1日最大113万食に及ぶという大規模なもの。このため、既成の災害協定の枠組みを超える形で支援物資輸送が行われることとなった。

緊急支援物資は政府・地方系の2種類 
パンやおにぎり、毛布や仮設トイレといった災害時の支援物資は、地方自治体が調達するものと、政府が調達するものと2種類ある。物資は、地方や政府が備蓄庫に保管しているものは速やかに拠出し、無いものは、行政機関がメーカーなどに発注して調達する。この物資輸送をトラック業界が実費をもらって避難所に届ける。東日本大震災の政府調達物資輸送は、2011年3月12日の未明から出動し、5月9日までの59日間で、延べ1925台のトラックが出動した。一方、地方公共団体の要請による手配車両は6月30日までに延べ8720台に上った。 

新潟県中越地震などの場合、必要な物資は、最前線の市町村が把握してそれを都道府県に伝えた後、地域のトラック協会や地方公共指定機関である主要運送会社に県が連絡。運送会社が備蓄庫やメーカーに物資を取りに行き避難所に届けてきた。それが東日本大震災で大規模に必要になった政府調達物資に関しては、被災県から、内閣府、国土交通省を経た後、全日本トラック協会を通じて、日本通運をはじめとした主要大手運送会社が被災地の拠点施設まで搬送した。


全日本トラック協会の取り組み 
東日本大震災の発災時、全ト協の事務所でも、震度5弱の大きな揺れを感じた。役職員はテレビ中継を観るなどして自らの出番を自覚するなど事の重大性を認識。会長を本部長とする「緊急災害対策中央本部」を設置し、常勤の理事長、専務理事をはじめとした役職員総出による臨戦体制が敷かれ、泊まり込みの輸送依頼の手配作業は5月の大型連休まで続いた。 

事務局がまず初めに行ったのが、あらかじめ用意していた衛星携帯電話などによる、被災地の関係者の安否確認や被害状況の確認等の情報収集。甚大な災害であるため、国土交通省をはじめ、日本通運など全国展開する他の主要大手運送会社との連絡を蜜にし、業界を挙げた緊急輸送体制の構築に努めた。 

3月11日深夜から12日未明にかけて、「おにぎり1万個をどこから調達してどこへ届けてほしい」といった個別の輸送依頼のFAXが事務局に届き始め、大手運送会社に支援物資輸送を手配する仕事に追われた。事務局には、大手運送会社からの出向スタッフが数人おり、運送会社の事情に通じた職員が、輸送依頼の内容を物流業界流の物資調達シートに書き換えて各社に輸送を依頼した。同じような手配作業は、被災エリアをはじめとした地方トラック協会においても盛んに行われた。

岩手県は物流拠点に催事場を利用 


東日本大震災における政府調達の物資輸送では、主に各県に1カ所から数カ所設けられた一次集積所まで輸送する「幹線輸送」と、そこから避難所まで配送する「端末輸送」の2種類で構成された。全国大手運送会社が幹線輸送を担い、地元トラック協会傘下企業や自衛隊、ボランティアが端末輸送を担った。

この緊急支援物資輸送の管理手法は、岩手県が成功モデルと言われている。大規模で使い勝手の良い一次集積所を設けたのがその象徴。利用した県有施設でキャパシティの大きいコンベンション施設「岩手産業文化センター・アピオ」(岩手郡滝沢村)は、20万㎡という広大な敷地の中に、2棟の巨大な催事場(3600㎡と2800㎡)、および3000台収容の巨大な駐車スペースを完備。東北自動車道の滝沢インターチェンジから2kmと道路アクセスも良好だ。さらに、中継拠点として、遠野市と花巻市に二次集積所が設置された。 

アピオにおいては、フォークリフト8台とパレット600枚、ボックスパレット300個が持ち込まれ、迅速かつ効率的な物流処理を行うことができた。アピオの建物の特性として特筆されるのが、展示場床の最大耐荷重が1㎡当たり5トンと高規格であったこと。フル積載した大型トラックが直接敷地内に乗り入れでき、重量のかさむ飲料水や米を高く積みあげることも可能だった。 

一方、被災各県では、一部の物流施設において、既に保管されている商品や、これらの荷崩れ等で十分な保管スペースが確保できず発災当初に多くの混乱が見られたという。

岩手県の物資輸送管理は成功モデル
岩手県が緊急支援物資輸送で成功した背景には、同県トラック協会に、大手運送会社出身の専門知識を有する役員がいたことと、発災当日に全ト協から物流のエキスパートが送り込まれたことも理由に挙げられている。運送業界は単純に物を運ぶだけのローテク産業と思われがちだが、なるべく在庫を減らしてキャッシュ・フローを向上させるトヨタのジャストインタイム方式のように、「物流業界には、自社の物流管理の一部もしくは全体を専門会社に委託する、サード・パーティー・ロジスティクス(3PL)に代表されるような高度な物流管理システムやノウハウが存在する」(細野専務理事)という。 

実際、岩手県の物流管理においては、同県トラック協会の指揮のもと、アピオの2階に10人の県職員を配置。24時間2交代制により、在庫管理や出荷指示などを行うマニフェストを活用した物流管理体制が敷かれた。 

作業体制は、管理チーム、作業チーム、警備チームの3班が設けられ、管理チームには、トラック協会の職員と関係者で構成。作業チームの作業員は最大100人を超えたという。これら3チームが協働する形で、物資の受け入れ、仕分け、避難所への出荷作業などが行われた。物資管理のデータは、初動期には手作業で行われていたが、通信環境が安定的に確保されるようになってからは、すべてコンピュータ処理されるようになった。 

岩手県で採用された物流方式は、「クロスドッキング方式」というもので、コンベンション施設を活用した一連の災害物流システムはその後、「岩手方式」と呼ばれ、国の災害時の物流のモデルケースとして捉えられている。

端末輸送の最前線 


全国から集まった物資は2000カ所を超える避難所に配送されたが、被災地の最前線では、必要な荷物が届かなかったり、散在するなどの不手際が生じた。こうした中で、普段から地域に根差した宅配事業者の活躍が目立ったという。宅配事業者は総じて地域や道路事情に精通し、各戸の家族構成や高齢者の有無などを記憶しているドライバーも多く、こうした宅配系のドライバーが最前線で大きな役割を果たした。 

ヤマト運輸では、9営業所が全壊、58台の車両が全損するなど、発災直後は、北海道や東北地方の集配業務と震災地向けの荷受けを停止せざるをえなくなった。こうした中で、緊急物資輸送のため、各自治体と連携をとりながら、通常の宅配サービスに加え、避難所、集落、病院、養護施設などへの端末輸送に奔走。震災発生後3~4日後には、現地従業員が自主的に被災者への救援物資の配送を始めた。気仙沼市や釜石市では配送管理の手法も提案したという。 

3月21日には、被災エリアにおいても、営業所における荷受けと営業所留置荷物の受け渡しサービスを全国ネットで復旧させた。3月下旬には、岩手、宮城、福島の3県、並びに自衛隊と協力して、集積所における仕分けや、避難所や集落への配送協力を行い、本社からも幹部職員を含め長期にわたって大勢の従業員が出向いた。

福島原発事故と最前線の状況 
福島県においては、地震と津波被害も甚大だったが、福島第一原発による被災事故の影響により、地震と津波被害による被災・避難者のみならず、同原発事故に伴う屋内退避圏域住民への物資輸送も急務となった。業務中の被爆が心配なことから、輸送業務は専ら自衛隊が担うこととなった。また、トラックが荷物を運んでも、流通業者や商店主が圏外に避難してしまい、受け手が不在で持ち帰るケースも相次いだ。原発事故に伴い、福島県ナンバーの車両が敬遠される風評被害も生じた。 

一方、4月27日の政府による計画的避難区域、および緊急時避難準備区域の設定に伴い、全ト協では5月2日付けで、放射線管理基準を作成し、事業者宛に運転者や作業車のガイドラインを提示した。内容は、年間100ミリシーベルトまでは人体に影響がないとの政府見解であったが、運転者、作業者の安全を最優先し、一般市民と同値の年間1ミリシーベルト、さらに車両の運転席においては、1時間当たり値で20マイクロシーベルトを基準とした。全ト協では、150個の被爆線量計を確保し、1年間の無料貸し出しサービスも実施した。

政府調達では1898万食を輸送 
3月11日から5月9日にかけて、大手各社が運んだ政府調達の物資は、パン939万食、即席麺256万食、おにぎり350万食、精米336万食、缶詰等740万食で、食料品は総計1898万食。その他、飲料水794万食、トイレットペーパー38万個、毛布41万枚、おむつ40万枚、薬24万箱、マスク438万枚、燃料1.6万キロリットルという膨大なもの。 

輸送の手配総数は、3月14日の1日203件をピークに累計1925台のトラックが出動した。配送先の拠点総数は、宮城県793台、福島県646台、岩手県538台など。また、地方調達物資に要したトラックの出動台数は8702台に上った。このほか、被災地では火葬場が突発的な需要に追いつけなくなったため、遺体搬送車両を4台確保し、関東エリアの火葬場に631人の遺体を搬送した。

緊急物資輸送における各種の教訓 
緊急支援物資輸送では、必要な緊急物資が被災地に届かなかったり、散在したりといった事態が生じたほか、荷物の受け取り拒否や、メーカーに荷物の回収に出向いた際に、そんな注文は聞いていないなどの混乱が特に初動時に発生した。

支援物資到達の遅れの原因はたくさんあるが、◇過去の想定を上回る大規模かつ広域災害であったこと◇道路網や情報通信網が各所で寸断された◇大規模で効率的な集積所の確保が遅れた◇防災備蓄施設をはじめ、車両や設備の多くが被災した◇救援・救命・救護が優先され、自治体や物流業務に係るマンパワーが圧倒的に不足していた◇燃料不足◇規格やロットが揃わない物資が大量に搬入され、荷さばきや仕分けの負担が増した◇情報の錯綜によるオーダーミスややり直しが頻発した◇配送先の施設が損壊し、受け手不在だった―など。 

最も問題視されたのが、初動段階において多くの物資が各所に滞留し、末端まで物資が届かず混乱を招いたこと。本震災においてはこうした状況を受け、物流に関する専門的な知識や経験を有する物流専門家を、宮城県に3人、岩手県に1人、福島県に3人、茨城県に2人派遣し、物流ニーズの正確な把握、適切な仕分け、最適な配送等に貢献した。 

こうした教訓を踏まえ、全ト協では国に対し、災害時における支援物資の物流を担う物流事業者の最大限の活用や災害協定の内容見直し(全ト協と大手運輸会社の指定機関への追加)、情報通信手段の確保、物資発注様式の統一化などを政府に提案。2013年10月1日には、日本通運以外に、大手輸送4社が物資輸送に関わる指定機関に追加された。 

このほか、緊急車両の通行許可に係る制度や燃料不足の問題なども大きな教訓となった。全ト協ではいずれについても、東日本大震災の発災直後に政府に要望書を提出。緊急輸送車の緊急輸送路走行に関する手続きの簡便化(東北自動車道と常盤自動車における標章不要など)や、緊急輸送車の給油が優先的に行えるガソリンスタンド数の拡充措置などの成果を政府から引き出した経過がある。 

このほか、全ト協の細野専務理事は、行政に考えてほしい災害の事前対策として、「公共施設には災害時の支援物資の拠点施設に適した堅牢なものがたくさんあるので、これらの有用施設を避難所だけでなく、物資向けに割り当てることも考えてほしい」と話している。


東日本大震災時の建設業の応急対応
緊急輸送路確保から腐敗魚の投棄まで

宮城県建設業協会、株式会社橋本店

災害時に地域の社会資本等の応急対策に尽力し、地域の自衛隊的存在に例えられるのが地域における建設業の存在だ。

東日本大震災の発生直後、宮城県内においても、救命・救援や被災地への緊急支援物資の搬送に欠かせない緊急輸送路のがれき撤去をはじめ、損壊した河川堤防の補修や建築施設の応急点検、宅地や農地のがれき撤去、仙台空港の排水処理といった公共施設の応急対策などに従事。

このほか、行政機関との災害協定の規定にない、行方不明者の捜索や遺体の仮埋葬、腐敗した魚の投棄処理といった突発的な想定外の需要にも積極的に対応した。

地方自治体と建設業団体の災害協定 
都道府県発注の公共工事の施工や国道や県道などの維持管理業務を担う建設業者らで構成する建設団体が都道府県単位に存在する。宮城県内には、一般社団法人宮城県建設業協会(宮建協)があり、仙台建設業協会のように市区単位のほとんど、町村単位の一部にも同様の団体が存在する。 

大きな災害が発生すると、社会資本がダメージを受けて日常生活に支障が生じる。これに備えて、地方公共団体や国が、当該エリアの建設業団体と結んでいるのが災害時の応援協定。建設機械や重機オペレーターを有する建設会社に対し、行政機関は、道路、河川、建築施設などの状況をパトロールして報告させ、必要に応じて仮復旧させる応急対策を行う約束を規定している。 

宮城県と宮城県建設業協会の2者間では、「大規模災害時における応急対策業務の応援に関する協定」という災害協定を交わしている。県が宮建協に求めているのは、相応規模の災害が発生した場合に、「人命救助及び道路交通確保に伴う障害物除去のための作業等」を行うこと。前記は、津波被害に限らず、地震等によって人命救助や生活支援物資の搬送用に指定された緊急輸送路に倒壊した建物のがれきが堆積することを想定したもの。 

いざ災害が発生した場合、行政機関は建設団体に対し、災害協定に基づく応急対策の行動を要請。建設業者は発災後速やかに、道路や河川堤防などのパトロールを実施した後、行政機関に状況を報告、行政機関と連携を密にしながら、道路のがれき撤去や道路の段差解消、損壊した河川堤防に対する土のう積みの実施などを求めている。

宮城県建設業協会の初動 
2011年14時46分の本震。仙台市中心部にある宮城県建設業協会のビルも激しく揺れ、6階の事務局のあるフロアは、書棚から物が飛び出して足の踏み場も無い状況となった。館内に研修に来ていた会員関係者400人は全員館外に避難。15時30分、余震が落ち着くと、会長、専務理事ら役員が会館にかけつけ、6階の事務局内に災害対策本部を設置した。 

停電により夜の街は真っ暗。公共交通機関もストップし、市街地は大渋滞。宮建協では、会館2階のフロアを開放して避難者を受け入れ。毛布、ろうそく、懐中電灯、1000食分の備蓄資料を提供した。女性事務員は帰宅させ6人の職員が残った。 

19時、役員が県庁まで出向き連絡と体制について確認。20時、東北地方整備局や県と情報交換。22時、県から道路パトロールと段差解消の要請が入る。携帯電話で全9支部に連絡するものの、沿岸の3支部には連絡がつながらない。23時、東北地方整備局、県と再び情報交換を行う。 

12日深夜2時、県から災害協定に基づく緊急輸送路の啓開(がれき撤去)作業の要請が入る。これに伴い、3時に常務理事が県庁で打ち合わせ。国道4号線から沿岸部に延びる6路線の啓開の実施を確認。宮建協4支部6班に啓開作業を依頼。12日から対象道路の啓開作業に向けた道路パトロールが始まり、建設業界による応急復旧の活動が本格化した。 

東北地方整備局が、管内の建設会社411社に行ったアンケートによると、発災後4時間以内に6割の建設会社が活動を開始したという。理由は、多い順に「建設機械等を自社で保有している」「従業員が地元の地理に詳しい」「地元の建設会社であり、協力会社も地元」「作業員やオペレーターを自社で雇用している」「日ごろから緊急時に備えた体制ができていた」などが挙げられている。

仙台市の橋本店は災害対策に注力 
次に、宮建協の会員会社が実際にどのような応急対策で社会貢献したのかを、宮建協会長の佐藤博俊氏が会長を務める株式会社橋本店の事例から紹介する。 

同社は、完工高が約100億円(平成23年度)土木と建築の比率がほぼ。半々の県内売上高2位の地場ゼネコン。公共事業の一定量を有する一方、宮建協の他会員に比べ、民間建築のウエイトが高いことが特徴。佐藤会長が宮建協の会長職にあることから、関連する行政機関や建設関係団体ともつながりの強い企業と思われる。 

そんな橋本店は、災害対策に熱心な企業でもある。被災直前にBCP(事業継続計画)と災害時対応マニュアルを作成し、災害時の拠点施設を設けたことなどがそれ。災害時の災害対策本部の設置を想定し、備蓄品を備えた「高砂サポートセンター」は、仙台市郊外に3月1日に開所したばかりだった。

橋本店の初動 安否確認から 
橋本店の本社屋は12階建ての自社ビル。上層階にいる従業員たちも、本震や余震で激しい地震の揺れを体験。館内放送で屋外退避指示を出し、従業員らはいったん近くの公園に避難。災害対策本部は、高砂サポートセンターより内陸の本社の方がベターとし、本社1階に佐々木宏明社長を本部長に設置した。発災直後、同社の幹部がまず従業員に指示したのは3つ。1つ目は、従業員の安否確認。本社の人間には点呼も行った。幸い、従業員には一人の犠牲者も無かったが、全員の安否を確認するのに4日を要した。2つ目は、「建設現場を止めて、待機しろ!」。当時は公共工事の繁忙期。土木建築合わせて44カ所の現場が稼働。地区ごとに待機するよう指示した。3つ目が、行政機関や建設団体と連携した災害対応。事務員は帰宅させたが、土木と建築の技術系従業員たちを会社に待機させ、災害復旧に備えることとなった。

停電と通信が遮断 情報不足に陥る 
3月11日の発災当時の仙台市は、電気、ガス、水道のライフラインが全て途絶した。テレビが見られるのはワンセグのみ。固定・携帯電話とも、電話の基地局がやられてアウト。使えた電話は衛星携帯電話のみ。インターネットも遮断され正確な情報がつかめなかったという。遠隔地では、テレビなどでかなり具体的な被害状況が把握できたが、被災地では、周囲で何が起きているのか、灯台下暗しの状況に陥っていた。幸い、橋本店は、県庁や宮建協から徒歩10数分程度の距離にあるため、行政機関等に出向いて被災情報を収集して次なる行動に備えることができた。

発電機と投光機を持ってきてくれ! 
発災当日の11日、同社1階の敷地が投光機によって明るく灯されたことにより、同社の本社には大勢の人が集まり異彩を放っていたという。これを受けてか、12日に対外的に一番翌引き合いがあったのが、「発電機がほしい。投光機もお願いしたい」というもの。1日目の暗闇の悲惨さ思い知らされた行政機関や避難所等から、たくさんの要請が舞い込んだ。建設会社の各現場には、発電機や投光機があるのが当たり前で、冬期のためジェットヒーターを配備している現場もあった。このため、発災2日目は、一連の機器の調達と県の出先機関や避難所等に配送で追われる従業員もいた。

津波被災地の命を支えた道路啓開作業 


津波が道路に残したがれきの除去作業は、ふさがった道路を開(あ)けて啓(ひら)く意から、専門用語で『道路啓開』(どうろけいかい)と呼ばれている。本震災における道路啓開の象徴的なプロジェクトが、東北地方整備局が主導した宮城・岩手両県を対象とした「くしの歯作戦」。本震災では、大津波により沿岸部の被害が大きかったことから、ここに東京方面からの人命救助隊や医療チーム、および緊急支援物資の輸送車両等の通行をいち早く可能にしようと考えられた。 

“くしの歯”とは、東北地方を南北に縦貫する東北自動車道と国道4号線の縦軸ラインから、大津波で被災した太平洋沿岸の宮城県石巻市、南三陸町、気仙沼市等の主要拠点へ15の横軸ルートを確保するもの。このライン全体形状が櫛のかたちに似ていることから命名された。プロジェクトには52チームが参加。このうち、橋本店は、南三陸町の国道45号線の啓開に携わった。 

啓開作業は、路線ごとに2~3社の建設会社が1チームとなって実施した。除去作業に先立って行われたのが道路パトロール。車を西方から太平洋岸に向けて走らせ、どこまで走れるかの確認作業が3月12日の早朝から行われた。橋本店が担当した国道45号線では、河口から約3km上流の地点までがれきが堆積していたという。

消防、警察、オペレーターが三位一体 
同社が、がれきの撤去作業に着手したのは13日から。前日12日には、事前準備として、がれきをつかむグラップル、重機運搬用のトレーラー、燃料の確保が行われた。各社が3~4台の重機を持ち込み、1チームごと10台ぐらいの重機が各路線に出動した。 

撤去作業は、がれきの中に行方不明者がいる可能性があることから、消防隊員(団員)と警察と建設業のオペレーターによる三位一体で進められた。撤去作業を始める際にはまず、消防団員ががれきの先頭に立って堆積したがれきに目を配り、人の気配がありそうな場合は、消防団員の監視の下、重機オペレーターが慎重に気を配りながら堆積物を少しずつ除去していく。心配がないと判断されれば、オペレーター主導でどんどん片付けていき、遺体が見つかるなどの異変があった場合には、消防団員や警察の立ち会いの下、丁寧な作業に努めたり、遺体が現れた場合は搬送も手伝った。同社が担当した区間では、7人の方の遺体が見つかった。こうした地道な作業の繰り返しにより、くしの歯作戦は、3月15日時点で15の東西ルートを確保。19日までに計画したすべての啓開作業が完了した。なお、同プロジェクトは、被災エリア全体における啓開作業のごく一部にしか過ぎない。

多岐にわたる建設業の災害復旧業務 
同社が土木関係の応急対策で受けたのは260件。建築は建物の被害調査411件を実施している。このうち土木関係の内訳は、国25件、宮城県29件、仙台市26件、その他の市町村16件、それ以外が164件と膨大な数に上った。 

3月の初動の段階では道路啓開以外に、損壊した河川堤防の応急対策、地すべり現場の応急対策、自治体への軽油の運搬、橋梁の段差解消とそれに伴う交通整理なども実施。3月下旬には、自衛隊と連携して行方不明者の捜索活動を目的としたがれき撤去作業にも10日間ほど従事した。この際、重機オペレーターは、毎日のように遺体を見ることになった。また、仙台市内においては、3月~7月にかけてその他の道路啓開作業、6月以降に宅地のがれき撤去作業、8月から翌3月にかけて農地のがれき撤去作業に従事したという。 

事業継続的な観点では、公共事業である土木工事は、発災当時24現場が稼働していたがいったん中断された。これにより、自社や協力会社が有する人材や建設機械も、災害復旧に充てられた格好。この辺りは、他の製造業やサービス産業と異なり、防衛訓練を止めて災害復旧に従事する自衛隊と似ているかも知れない。これは公共事業に従事する土木分野について言えることで、民間の店舗営業を再開させたいクライアントらがいる建築部門の状況は土木部門とは異なる。

東日本大震災の教訓と今後に向けて
【橋本店】 
橋本店では、震災後の災害復旧を終えた段階で、従業員にアンケート調査を実施している。一番多かった意見が、連絡網と通信関係のハードとマニュアルづくりの脆弱さだった。同社では、従来から衛星携帯電話を3台持っていたが、震災後は、停電時でも使えるMCA無線機を仙台市の本社と3カ所の営業所に配備。旧マニュアルは分厚く煩雑で理解しづらかったため、誰が見ても即断できる簡素なポケットサイズのものを作成し直して全従業員に配布した。中でも、社内の取り決めの確認事項はもちろんのこと、災害伝言ダイヤルの使用方法は相応のスペースを割いた。 

次に多かったのが、「食料と水の不足」、続いて「安否確認(従業員・家族)」「電気(発電機・充電器)」「緊急備品の整備等」…。災害対策用サポートセンターには、大型のビニールシートや大型土のう、常温のアスファルト合材、軽トラ、チェーンソーも配備するようにした。  

このほか、同社では、海上工事においても早期復興の足がかりになるように、コンクリートミキサー船や2台の起重機船を所有したり、仙台市内初となるメガソーラー発電事業(出力1.5メガ=住宅450軒分賄える)の建設プロジェクトも実施した。

【宮建協】 
宮建協では、東日本大震災の経験を踏まえて、次のような提言を後世に向けてまとめている(項目のみ列挙)。

①燃料不足、食料不足への対応
②情報通信遮断への対応
③避難所に灯りを提供し、安全点検
④行政・建設業界の窓口の一本化、指示体系の一本化を
⑤官民一体での復旧体制の確立を
⑥想定外の対応の取り決めを
⑦日ごろから実践的な訓練を
⑧記録に残し社会に伝えよ
⑨東日本大震災を風化させるな
⑩建設業のDNAの継承を
⑪適正な数の「地域の町医者」を残せ

遺体埋葬や腐敗した魚の海洋投棄も 


橋本店以外の建設会社では、水産加工場の腐敗した魚の海洋投棄、遺体の仮埋葬などに従事した人たちもいる。 

魚の投棄作業は4月から6月半ばまで行われた。投棄量は延べ4万6000トン。臭気がもの凄く、海に捨てられないダンボールや発泡スチロールとの分別や、瓶詰の中の塩辛やもずくなどを取り出す作業は人海戦術で行われた。当時、そうした仕事に従事した人たちの中には仮設住宅暮らしの人も多く、どんなにきれいに洗っても臭いがとれず、帰宅後に「周囲から嫌な目で見られるのが、仕事よりも辛かった」とこぼす人もいたという。 

遺体の仮埋葬は、遺体の安置所や火葬場のキャパシティを超える事態となった石巻市などで発生した。バックホウで穴を堀り、市から提供されたコンパネを使って棺桶を手作りで作成。葬儀業の人が棺桶に遺体を入れて土に埋めた。数カ月後に火葬場が復帰すると、棺桶を掘り返す仕事も発生した。「若い人の遺体を見て神も仏もないのかと思った。人生観が変わった」と振り返った従事者も。また、行方不明者の捜索活動を通じ、遺体を毎日目にして精神のバランスを崩し業界を去っていった人もいるという。