関宿城(千葉県野田市関宿町、提供:高崎氏)

御三家水戸藩などの横暴

私は、幕末関宿(せきやど)藩重臣で治水家の船橋随庵(ずいあん)の生涯に強く惹かれ、関連史料を調べたうえで、評伝を刊行した。同時に地元・千葉県野田市などの要請に応じて、水害に苦しむ民衆のために尽力した随庵の生きざまを「炎燃え尽きるまで」と題してドラマ化し2度にわたって上演した。10年ほど前のことで、会場は連日満員であった。

譜代藩・関宿藩(6万石)は利根川と江戸川が分派する水運の要衝にあった。随庵の生涯を調べるにつれて、2つの大河を上り下りする各藩の高瀬船の船頭や水夫らがたびたびけんか沙汰を起し、中でも水戸藩や彦根藩などの雄藩の船頭らが権勢を笠に着て傍若無人な振る舞いを重ねたことを知った。川の関所をかかえる小藩関宿藩は、彼らの暴力行為や横暴な振る舞いに悩まされ続けたのである。

文化8年(1811)に起きた<江戸川事件>は、利根川・江戸川水系で水上運送に従事しているものはもとより、水戸藩の士民の間の口の端(は)に後々になってものぼる忌まわしい事件であった。水戸藩から江戸藩邸に物資を送る手船(藩船)は、霞ケ浦から利根川をさかのぼって関宿から江戸川を下り隅田川に入って江戸表に到着する。川の関所をかかえる関宿は河岸問屋が軒を連ねた。川船はすべて川船奉行の統制下にあった。

だが御三家の一つ水戸藩の手船は例外で、米俵を積んだ大型船・高瀬船などが丸に水の藩船印(旗)を立てて自由に運航した。水戸領内の一般の船も丸に水の極印を打っていて特別な扱いを受けていた。同藩の手船は、特権意識が強く川を行き交う他の船に優越感を抱いて、かぶり物をとって敬意を示すよう要求することもしばしばだった。

利根川を利用する関東・東北諸藩の船も江戸川を経て物資を江戸川に運んでいたが、下野国佐野(現栃木県佐野市)などに飛地を持つ彦根藩(親藩、井伊家・35万石)の手船も物資輸送のためしきりに往来していた。水戸藩と彦根藩の手船の間に険悪な空気が生じるようになったのは、文化5年(1806)に起きた彦根藩と仙台藩の船との争いがきっかけであった。同年4月9日、仙台から鹿島灘を南下して銚子から利根川に入り江戸川を下って江戸に向かっていた仙台藩の船が、松戸(現千葉県松戸市)付近で彦根藩の船と接触した。船子同士のけんかとなり、仙台藩の船子(水夫)が彦根船に拉致された。

仙台藩の船頭は通りかかった水戸藩の手船に船子を戻してくれるよう頼み、水戸船の船頭が彦根船に強く掛け合い、取り戻してやった。この騒動に水戸の江戸藩邸から出張した藩士の態度が、御三家の権勢をあらわにした高圧的なものであったので、彦根藩の手船の船頭や水夫らは水戸船に深い恨みを抱くようになった。彦根船も、幕府溜間詰筆頭大名の井伊家の手船であるとの自負があって、水戸の商人の船を見かけると、故意に航行を妨げたりした。「かぶり物を取れ」などと命令口調で声をかけた。両藩の船乗りたちの間に殺気立った空気が濃くなった。

水戸藩と彦根藩の宿命的対立

文化8年(1809)4月18日、水戸藩の手船が江戸川で彦根藩の手船と行き合った。その折、彦根藩の手船の船頭が「かぶり物を取れ」と叫び、水戸藩の船子たちは、一時雇いの者たちであったのでかぶり物を取った。このことを知った水戸藩の手船関係者は、藩の誇りを傷つけられたとして激怒し、彦根船に報復すると息巻いた。水戸船の者たちが彦根藩の船に意趣返しをするとのうわさが江戸川筋一帯に広まり、彦根船の者たちも日頃からの恨みをはらす、と公言していた。

その年6月、江戸へ向かう10艘の水戸藩の手船が、利根川筋の下総相馬郡押付村(現茨城県利根町)の岸に着くと、松戸の船宿から「彦根藩の手船6艘が、水戸藩の手船と打ち合うため待ち伏せしている」との注進が入った。水戸藩手船の船頭は、早速、使いの者を上戸(現茨城県潮来市)の運送方役所へ急がせ「彦根の手船には多量の武器が積み込まれ、武芸者や博徒を乗せているとのうわさもあり、こちらは船頭や水夫ばかりなので、ご加勢を願う」と訴えた。上戸役所では、この願いを入れて水夫20人、目付方役人3人を派遣し、江戸の水戸藩にも急報した。

藩邸では直ちに小十人目付檜山又五郎、徒目付(かちめつけ)鈴木惣右衛門が同心目付、押役など15人を率いて江戸を発ち、利根川と江戸川を結ぶ関宿に急行した。押付村に停船している水戸藩の手船に使いの者を出して、関宿まで来るよう指示し、10艘の水戸船が関宿の河岸(河川港)に入った。それらの船に同心目付らが分乗し、小十人目付たちも別の1艘に乗り、6月19日に江戸川を下った。

彦根船6艘は、背後から襲う計画を立てていて、葦の中に潜んで水戸船をやり過ごした後、追ってきた。彦根船は下総葛飾郡中野村(現千葉県流山市)付近で追いつき、5艘は追い越して過ぎたが、最後の1艘が、先頭を行く水戸船に船を激しくぶつけた。同時に針金の入った鉢巻をし筋金入りの刺子に身を固めた4人の男が、彦根船から水戸船に白刃をかざして斬り込んだ。驚いた水戸船の水夫たち3人は、使っていた水棹(みさお)で抵抗したが、棹を斬りはらわれ、川に飛び込んだ。船頭は刀を手に応戦しようとしたが、彦根船から唐辛子入りの水を竜吐水(鉄砲水)で浴びせかけられ目がくらみ、乱入した彦根船の者に斬られて川に落ちた。斬り込んだ彦根船の4人は、素早く川へ飛び込んで逃げた。その後、水戸船の船頭と水夫の水死体が松戸の下流で発見された。

騒動の報告を受けた江戸の水戸藩邸は、目付・山口伝左衛門、先手(さきて)物頭・遠山織部を同心、目付ら143人とともに現地の中野村に急派した。また、彦根藩邸からも勘定奉行ら100人余りが派遣され、仙台藩から24人、幕府の代官浅岡彦四郎も手代とともに出張した。江戸川の船の通行は全面禁止となった。6月29日、幕府の勘定奉行の与力が江戸から出役し、江戸川の岸に停泊していた水戸、彦根両藩船をはじめ他の船にも退去を命じ川筋は平穏を取り戻した。

水戸藩主・徳川治紀(はるのり)は大いに怒り、家老中山備前守を通じて幕府に訴え出た。水戸藩の主張が入れられるようになり、非は彦根藩側にあることが明白になった。水戸藩主はこれまでの取り調べが不公平であると厳重に抗議した。幕府は彦根船の者4人を追放刑に処し、水戸船の者にも乗船禁止の判決をくだした。事件は落着した。だが彦根藩側が評定所での尋問で終始虚偽の申し立てをしたことで、水戸藩では彦根藩に対して不信感を募らせた。その後の彦根藩主井伊直弼の大老就任は、水戸藩士にその屈辱的な事件を思い起こさせ強い不快感を抱かせた。事件は井伊大老暗殺の「桜田門外の変」への導火線になったとされる。