デ・レーケが構築指導した滋賀県大津市の「オランダ堰堤」(提供:高崎氏)

明治期以降の代表的な治山・治水対策

日本最初の近代的河川法は1896年(明治29年)4月に制定された。近代化を急ぐ明治政府はインフラ整備の一環として洪水防御を重視した。法律は河川管理者を原則として都道府県とし、必要に応じて国が大規模事業を実施する体制を定めている。相次ぐ大水害の防御に重点をおいたもので、以後国内の河川改修は治水優先をうたった河川法のもとで実施された。翌年制定された森林法、砂防法と合わせ「治水三法」と呼ばれる。

だが「治水三法」が順次制定されたことで、河川と森林の維持・管轄は旧内務省と旧農林省(現・林野庁)の縦割り行政に分けられてしまった。ヨーロッパ型の「統合的水資源管理」は実現しなかった。この時期、全国各地ではげ山の復旧事業が進められ松を植林した結果、松林の蒸発作用のために農業用ため池が渇水し農民を困窮させるという被害が相次いだ。松の植林が裏目に出た。

明治期の治山・治水を考える上で、オランダ人お雇技師ヨハニス・デ・レーケ(1842~1919)を無視することは出来ない。淀川、木曽川、吉野川、常願寺川などで実践された彼の近代的治山・治水計画の特徴をあげてみよう。

1.治山の重視である。最初に手がけた淀川流域において十分に発揮され、木曽川流域でも存分に示された。彼の治水重視の発想は、淀川流域に加えられた歴史の深い治山・治水技術の蓄積を検証した結果生まれた。極めて現実的な発想である。彼は日本の河川で古くから採用された土地利用と治水の関連を学びとってゆく(彼は北陸地方の急流河川を視察した際「日本の川は滝だ」との名言を吐いたとされる。有名なエピソードである)。
2.河川を上流から下流まで一貫してとらえる視点である。
3.計画の基礎は常に近代科学の特質である合理精神を貫いたことである。
4.常に経済的観念(予算の有効利用)を強く抱いて河川計画を立てたことである。

彼の治山重視が行政上の成果となって表れたのが水源涵養法である。彼は荒廃する一方の森林に警告を発し、山間傾斜部などの土地利用、特に焼畑耕作を強く批判した。だが日本では治水と利水との管轄が分かれたことにより、砂防面では農商務省と内務省で権限争いが先鋭化し、内務省内ですら砂防と河川改修の縄張り争いが戦後まで続いた。

森林の保水機能についても見解が分かれた。森林の治水効果は(時間雨量)40mm程度の雨までで、それ以上の豪雨の場合は40mm以下の場合より洪水の流出量ははるかに増すとされ、大雨には森林の保水効果(「緑のダム」効果)は限られるとの学説が有力視された。