多様性を前提とした共生が、社会の多様化ではなく、同一化を加速させるリスク(イメージ :写真AC)

本当の意味での共生

前回は「もしトラ」による影響の一つ、移民問題に関して語った。今回は関連する影響として、多様性を前提にした共生に関して語りたい。

まず、最初にお断りしておきたい。歴史や文化を常識的に理解しさえすれば、日本は世界で類を見ないほど多様性に寛容で、共生を実現してきた社会であるということだ。それなのに、日本はあたかも多様性に不寛容で、後進国的な差別がはびこるとの批判が少なくない。そして、現職内閣総理大臣がビデオメッセージで、差別社会であるかのように発信してしまった。なぜそうなるのか、不思議で仕方がない。

歴史や文化を形づくるのは、そこに存在する人そのものであり、人の思考がもとになることはいうまでもない。そして、人の思考回路や思想信条に最も影響を及ぼすのが宗教であり、政治や科学もかつては宗教的視点を欠いては語れなかったのが歴史的事実である。

この視点で日本の特徴を考察すると、多神教であることを抜きにしては語れないことに気付くだろう。そして多様性を語る多くの国が一神教を基盤とする国家であることも現実だ。この違いを意識しない人が多いかもしれない。それこそ多神教社会がゆえ、この違いに認識が及ばないのかもしれないが、まずはこの違いを認識する必要があると考える。

わかりやすい象徴的なユビキタスという一神教発信の考え方を下記に示す。あくまで概念図であり比較論なので、宗教論的に間違いであるとのご批判はご容赦いただき、マクロ的イメージとして考えてほしい。

●一神教ユビキタスと多神教のイメージの比較

一神教では森羅万象あらゆるものに神は遍在し、その神は唯一絶対神(従って大文字のGODという固有名詞として表現)である。一方、多神教では、自然界のあらゆるものにそれぞれ神のご加護が及ぶという自然信仰が基盤になる。

この二つに、今までにない新たな勢力が加わることをイメージしてもらいたい。つまり、多様性を受け入れる視点である。

一神教の場合、他の勢力が加わっても、同じ唯一絶対神の元に参画しない限り排除の対象になるのは容易に想像できる。つまり、一神教にとって多様性を受け入れるというのは同一化にほかならない。一方で多神教の場合、他の勢力が加わっても列が一つ増えるだけである。多様性の受け入れに寛容なのは当然なのだ。

もちろん、現代においてこれほど単純に原理主義にもとづくわけではないが、両者の間で、社会を構成する基盤に大きな違いがあることは無視できない。歴史的経緯の違いは歴然としている。そして考察しなければならないのは、多神教の構造下に、一神教の原理主義が入った場合に起きる衝突、問題解決の方向性だ。