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終結が見えないウクライナ戦争、ガザ地区でのイスラエルとハマスの戦争、米国・イスラエル・イランの戦争の勃発など、世界は、予想外に混沌とした国際情勢となっています。今まで通用してきた常識が通じない世界の出現と言えます。このように先の見えない時代の心構えとしては、重大な危機(クライシス)は必ず発生するという前提で事業経営を行っていく必要があります。前回のコラム第15回までは、海外子会社の経営リスク管理を中心に述べてきましたが、今回16回目から「海外危機管理」について述べたいと思います。

1.海外危機管理について

「海外危機管理」というと反射的に海外からの脱出をイメージする方が多いと思います。実際には、海外危機管理のカバー範囲は広く「海外脱出計画」以外にも「海外安全管理」「中核事業の継続を主な目的とするBCP(事業継続計画)」、「危機管理を有効にするための「自助」「共助」の組織文化」などの広い範囲に及びます。

我々日本人が余り慣れていないと言われる海外危機管理への理解を深めるために、著者が実際にたずさわった海外危機管理対応事例を参考に、その過程で実際に役に立ったことの具体例などを紹介していきます。

2.海外危機管理対応事例について

筆者は大学卒業後に石油会社に入社後、中東を中心に様々な危機管理(クライシスマネジメント)を経験し、石油会社を退職後も海外のリスクマネジメント、リスクソリューション、クライシスマネジメント等のコンサルティングを実施しています。以下、石油会社に勤務したときに経験した実例からご紹介させて頂きます。

(1)1975年レバノン・ベイルートの事例

市内の混乱状況は益々激化、国際電話は全く不通。駐在員、事務所、社宅とも今のところ無事ですが、駐在員事務所としての活動は残念ながら停止せざるを得ません。テレックス装置は取り外します。各店からの連絡は以降受信不能となります。本信は、イルート事務所としての最後のテレックスとなります。

当事務所発足以来今まで寄せられた皆様の暖かいご支援を深謝いたします。私自身、皆様のファミリーの一員としてこの二年半本当に楽しく毎日を過ごさせて頂きました。

これからの私の運命は神のみぞ知るでしょうが、この思い出を大事にして生き抜いていきます。皆様のファミリー皆々様のご多幸をお祈りします。

ベイルート事務所 N・T 

 

この文章は、1975年(昭和50年)10月10日、泥沼の内戦に陥った、かつて「中東のパリ」といわれたレバノンの首都ベイルートから、本社はじめ海外店全店に発信されたテレックスです。中東産油国にコンタクトするための最初のベースであったベイルート事務所は、内戦の激化につれ、通信、交通の機能を全く失い1975年(昭和50年)9月末に事務所閉鎖が決定し、クエートヘ本拠を移動。家族は日本へ、駐在員は中東各地に赴任し、その後最後まで事務所の後始末をしてくれたN・T嬢が打電した最後のテレックスの内容です。

この時に始まったベイルートの内戦は、約15年6カ月の内戦を経て1990年10月にようやく終結し、その間に15万人以上が殺され、数十万人が家を追われ、推定25万人のレバノン人が移住したといわれています。

また、今年に入り、残念なことに、2026年2月28日にアメリカとイスラエルがイランに対して「大規模な戦闘作戦‐「エピック・フューリー(壮絶な怒り)」作戦を実施したことに端を発し、2026年3月2日にイランが支援する在レバノンの過激派組織ヒズボラが、イランの最高指導者ハメネイ師殺害の復讐のため、イスラエルに向けてロケット弾を発射。また、その報復として、イスラエル軍は8日、レバノン国内にあるヒズボラ関連の司令部やロケット弾の発射装置など、これまでに600以上の標的を攻撃したと発表し、190人超のテロリストを殺害したと主張しています。報復の連鎖が始まっています。

筆者はこのベイルート事務所の事例に関係していませんが、当時ベイルートから命からがら脱出した先輩諸氏から教わったことから、海外危機管理の原則は、「自分の身は自分で守る」という考え方の原点となった事例です。