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前回のコラム16回では、私が実際に対応した「海外危機管理」事例について概観させていただきました。今回第17回以降では、1990年8月2日イラク軍のクエート侵攻対応で日本人駐在員(以降T氏)と家族がイラクに連行され、9月2日にイラクを脱出・帰国し、その後1991年8月2日に勃発した湾岸戦争空爆開始までを、数回に分けて、時系列で事象を整理します。

この事象を追うことで、リスク対応の原則である「リスク予兆のとらえ方、常識に根差すバイアスの排除の重要性、現場での危機管理対応に重要な役割を果たすローカルスタッフとの人間関係や組織文化のありかた、危機管理対応の事前準備の重要性、海外危機時のBCPのあり方」など海外危機管理全般について、我々が学べる点を述べていきたいと思います

なお、本内容は、私が在籍していた出光興産の社内報に平成3年から8回にわたり連載され社外に広く頒布された内容及び市販の書籍を中心に事象を整理したものです。私が実際に本社で対応した事例ですが、実例に即したフィクションとして整理しなおしました。以下で述べる事象及び本社・現地双方の危機管理対応を見ることで、海外危機管理の重要なポイントを述べていきたいと思います。

Ⅰ.時系列での事象整理

1.クウェート侵攻前のイラクの動き
1990年 
■7月17日

第22回イラク革命記念日でサダムフセイン大統領が演説。「一部の湾岸諸国が不当に、石油価格を引き下げ、イラクに140億ドルの損失をもたらしている」とクウェート、UAEに警告。

■7月18日

書簡が公表。「①クウェートによるルメイラ油田の盗掘、②クウェート、UAEによる石油ダンピング、さらに③両国がイラン・イラク戦争における戦争債務の帳消しに応じない」ことの3点を非難。

■7月24日

クウェートとの国境に軍隊3万を配備(ワシントンポスト)。翌々日の第87回OPEC総会に向けて軍事的圧力をかけ始める。OPEC総会への取材目的で、クウェートからT氏、本部から2名が派遣。OPEC総会へは世界から数百名が参加。

■7月25日

翌日に予定されるOPEC総会前にイラク高官にT氏がコンタクト。OPEC総会の見通しとともに、イラク軍がクウェート国境に集結していることに関して質問。「あくまでプロパガンバで、それ以上の心配はない」と言明。

■7月26日

総会本会議に先立ち開催された、24日の経済委員会(OPECの事務管理が主な役割)、25日の市場監視委員会(石油価格動向、生産・需給動向の監視が主な役割)の活動報告が事務局から報告された後に、午前10時半からOPEC総会本会議が開催。価格と生産枠の議論がなされるが、イラクの強硬な態度で紛糾。

■7月27日

10時から予定されていた全体総会は開催されず。原油の最低参照価格21ドルのみが決定。最終的には、サウジのファハド国王とサダムフセイン大統領の間で政治決断を受けることに。サダムフセイン大統領の書簡にあった「①クウェートによるルメイラ油田の盗掘、②クウェート、UAEによる石油ダンピング、さらに③両国がイラン・イラク戦争における戦争債務の帳消しに応じない」のうち、①③については、7月31日に、サウジの仲介で、サウジのジェッダで、イラクとクウェートの直接交渉が持たれることとなる。

■7月28日

T氏がクウェートに帰任。アラブが同じアラブを攻めるはずがないという見方が大勢を占め、支配的。現地の英字新聞での見出しには、「イッツ・オーバー(終わった)」と書かれ、緊張感はすっかりなくなる。

■7月31日

イラク革命評議会のイブラヒム副議長とクウェートのサアド皇太子の首脳会議が開催。交渉決裂。

■8月1日

T氏と普段からコンタクトがある外電記者から「イラク軍10万が国境に集結しているらしい」との情報を入手。米国大使館のS参事官に侵攻の可能性を聞いたところ「10万は大袈裟であり、アラブ同士で侵攻・攻撃はない」と従来の見解から変わらなかった。