1991年、ハイウェイ80号線沿いに並ぶ破壊された車(出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Demolished_vehicles_line_Highway_80_on_18_Apr_1991.jpg)

今回も前回に続き「1990年8月2日イラク軍のクウェート侵攻の対応に関して」在クウェート日本大使館へ日本人駐在員家族が避難するまでの動きとそこから得られる教訓を見ていきます。

Ⅰ.事象の整理

1.イラクのクウェート侵攻後③ 日本大使館への移動まで

8月3日

(1)イラク軍はクウェート全土をほぼ制圧。散発的にクウェート兵の抵抗がある。朝4時半ごろ、ドーンというすごい音とともに砲撃が再開。また、朝6時20分頃にマンション近くでものすごい爆発音。マンション近くの湾岸道路にロケット弾が落ち、煙が立ち昇る。湾岸道路は100メートルおきにイラク軍戦車が並び、海からの反攻・上陸に向けて砲身が海に向かっている。

(2)国際電話は何回もトライするも、この時点ですでに通じない状態。クウェートにいる日本人や取引先との情報交換は引き続き頻繁に行う。クウェートの環状道路のうち、パレスに近い道路は封鎖。ただし、イラク兵の検問は受ける可能性はあるが、市内の官公街付近を避ければ外出可能なことが分かる。

(3)正午ごろT氏は昨晩T氏のマンションに避難してきたM氏と近所の様子を確認するために外に出る。ホテルの駐車場の料金所は機銃掃射で穴だらけ。金庫が破られ、略奪行為が行われている状況。ただし、戦闘はすでにやんでいる様子。さらに遠くに外出しても害が及ばないと判断し、食料の買いだしに車で20分ほどの巨大スーパーの「スルタンセンター」に出かける。道路ではすでに一般の車が走っており、予想された検問にも遭わずにスーパーに昼過ぎに到着。米やスパゲティなどの主食は店頭から消えていたが、肉類や日本食のたくあんなどは豊富に残っていた。スーパーの店員によると、イラク軍の指示で平常通り営業をしており、値段も上げるなと命令されているとのこと。

(4)13時半に無事帰宅。摂氏50度を超える暑さで、クーラーの電源や水が止められる懸念があることに気づく。せめて炊飯の燃料の確保だけでもと思いつき、近所で日頃から仲良くしているインド人の雑貨屋に無理を言ってLPガスボンベを満タンにしてもらう。

(5)19時半、テレビで暫定政権が誕生したと発表。一方で、翌4日の朝3時から7時の間に米軍が攻撃するらしいので、T氏の住む米国大使館付近は最も危険になるとの情報を入手。また、湾岸道路で日本人駐在員がパスポートを取られた、自宅で入浴中にイラク兵の点検を受けたなどの情報が日本人社会に流れ、日本人住民の危機感は頂点となる。

(6)日本大使館に対しての再三にわたる保護要請で、やっと21時半に日本大使館が迎えの車を出す。米国大使館付近の日本人住民のほとんどは、外交官車を先頭に約10台の車でコンボイを組み、15分程度で大使館に避難。