(珠洲市飯田地区の被害。商店街から海につながる道)

人けのない商店街:飯田地区

富山県高岡市から能越自動車道を経由し、七尾市の徳田大津JCTで奥能登に続く「のと里山海道」に合流した。3カ月前は通行止めになっていた道路だ。ここまでは極めて順調。能越自動車道にあった段差や小さなひび割れはきれいに舗装されていた。PAではトイレも利用でき、手洗い用の水は温水。復旧の進展を期待した。

しかし、のと里山海道を進むにつれ、状況はまだ深刻だと気づく。道路の段差はむろん、いくつもの崩落した斜面を横目に、新たに建設された道路を列になってゆっくりと通過する。ここで震度7の地震が発生したらと頭をよぎったが、考えてもできることは多くはなかった。

ときおり、ジェットコースター顔負けの傾斜がきつい迂回路を下って上る。その高さはビルの2階分ほどだろうか。これらの道路状況を写真に収めたいが、1人では到底不可能だった。

のと里山空港ICをおり、珠洲市には一般道で向かう。市街地が近づくにつれ、崩れた家や青いビニールシートを目にするが、まばらだった。しかし、珠洲市役所がある飯田地区で現実を突きつけられる。倒壊した家屋が目立つ商店街。平日の昼間だからなのか、数人の復旧支援の人たち以外に人影はほとんどない。

そういう状況で、4月1日の営業再開を目指し、店内を掃除していたのは藤枝悦子さんだった。創業16年目で珠洲市の農家から野菜を直接仕入れて販売する八百屋を営む。「だめでしょうね。避難して誰もいない。様子を見る感じ」と話す。

今は菜花やふきのとうのシーズン。これから山菜を楽しめる季節のはずだった。一部のガラスが割れ、道路との段差はあるが、建物に被害はほぼないという。「でも、この3カ月で周りの風景はほとんど変わっていない」と涙ぐむ。

そして「早く水を出してほしい。水道局の方、がんばってほしい」と語った。

(飯田漁港で重なる車)
(陥没する海近くの駐車場)
(ショッピングセンター 「シーサイド」)

むき出しになった木材や割れた瓦が積み上がっているそばを通りながら、海に出る。飯田港では津波で流された車が重なっていた。海側の道路や駐車場では、道路の陥没や大きな裂け目が目立つ。元日の大津波警報で、買い物客を避難誘導させた店舗として多く報道されたショッピングプラザ「シーサイド」。裏口には地面と建物との間でコンテナが斜めに挟まっていた。

(再開したいろは書店の仮店舗)

「避難所から通っています」と話すのは、いろは書店の店主・八木久さんだ。創業から70年を越えるという老舗は、3月21日に仮店舗で営業を再開した。数軒先の店舗は地震で全壊した。

(被害の大きい商店街。 中央に「いろは書店」の看 板が見える)

暖かい日差しのなか、教科書を求めにきた親子づれが来店し、配送業者が書籍を店内に運び込んでいた。「まだ先が長いね。気長にやっていくしかない。毎日、少しずつ前へ進んでいけばいい」と語った。

倒壊ばかりの街並み:蛸島地区

(蛸島地区内で倒壊する家屋)

飯田地区を後にして内浦街道を西に向かうと、悪い意味で別世界のような風景が飛び込んでくる。道路の両脇に崩れた建物が急増する。砂埃が舞い上がるなか、復旧作業が進む。

(蛸島町MAP)

倒壊家屋は蛸島地区でピークに達する。観光用の「蛸島町MAP」には、古い街並みを守っていたことが書かれている。だからなのか、とにかく崩れた建物が多い。

(盛り上がったマンホール)

そのうちの1軒のそばにいた田川浩さんは「ぱっと見はいいでしょ。でも中はひどくて住めない。築50年以上経っていますから。5年前に張り替えたトタン外壁でもっている。更地にして建て替えます」と語る。

現在は避難所で生活。家財道具など使えるものを移すために来ていた。2023年5月に発生した震度6強の地震では、裏にある納屋が倒壊したが母屋は問題なかった。仕事は北陸鉄道のバス運転手。元日は金沢市の手前で被災し、翌日に珠洲まで戻ってきた。

「水がないのがやっぱりつらい。電気よりも水かな」

(被害の見られない住宅)

集落の中でひときわ異彩を放っている住宅があった。太陽光が外壁に反射し明るく輝き、そこだけ地震がなかったようにすら見える。田喜知秋子さん(87)は「建てて4年か5年です。目の前の家は崩れたが、家はそんなに揺れなかった。井戸もあったので、水も大丈夫」と話す。

7人が暮らすが、秋子さん以外は金沢市内に避難し、一軒家を借りて生活しているという。「ひんぱんに家族が見にくるし、毎日テレビを見て過ごしています。十分幸せです」と朗らかに話す。

(鍵主工業)

集落を出て、再び内浦街道に出ると大きな煙突が近づいてくる。奥能登の珪藻土で七輪などを製造する鍵主工業の煙突だ。「煙突は少し傾いている。4月に入ったら解体する予定。50 年前の釜も壊れた」と社長の鍵主哲さんは話す。

創業は 1932年。倒壊した事務所はすでに解体済みだ。地震直後は事務所に車庫を使っていたが、現在はプレハブに代わった。工場内では、手作業で七輪を製造していた。

1月15日から片付けを始めたという。昨年の地震でも、製造途中に商品が倒れるなど、被害は大きかった。転倒対策に、重ねた七輪をラップで固定するようにした。

しかし「地震のレベルが違い過ぎて、倒壊ばかりの街並み:蛸島地区ものの見事に全部崩れた」と話す。

現在はアパートを借りて暮らしている。周辺は水道が使えるようになったというが「うちはまだダメ。水が使えないのが、いちばん心が削られる」と吐露する。

現地で何よりも求められているのは、蛇口をひねると出る水だ。能登半島地震から3カ月。水道はまだ届かない。

(3月27日、山下祐司)