2012/07/25
誌面情報 vol32
利益を最大化するために
政府・企業が対策強化
「オリンピックに備えた BCP(事業継続計画)を取材させてほしい」こんな依頼に、首をかしげる人は誰も いなかった。 BCP 発祥の地と言われるイギリス。 オリンピックを経済の好機ととらえるとともに、 オリンピック期間中にビジネスを中断させる要因となる様々なリスクに備えた取り組みが始まっていた。
オリンピックに沸くロンドン。と、思いきや、開 催1カ月前の6月末、市街地を歩いても五輪の旗は どこにも見当たらなかった。オリンピックらしい風 景といえば、テムズ川に架かるタワーブリッジに飾 られた大きな五輪のマークと、オックスフォード サーカスの繁華街に各国の国旗が掲げられているぐ らいだった。
イギリスでは、エリザベス女王の即位 60 周年を記念する「ダイヤモンド・ジュビリー」の祝賀式典 が6月 17 日に開催されたばかり。さらにテニスの ウインブルドン選手権も開催中で街中の装飾が間に 合わないほどビッグイベントが続いている。
それでも、地下鉄や道路には、いたるところに、 オリンピック期間中の混雑の回避を呼びかけるポス ターや標識が設置されている(写真) 。
オリンピックのために設けられた政府機関 ODA( Olympic Delivery Authority: オリンピック運営 局)で事業継続と危機管理の責任者を務める Steve Yates 氏は「厳しい経済状況にも関わらず、オリン ピック開催前にすべてのチケットが売り切れており とても順調だ。民間企業にとっては、絶好のビジネ ス機会になることは間違いないが、こうした大イベ ントがもたらす交通やスタッフの問題に企業は備え なければいけない」と指摘する。
政府では、 3年ほど前、 ODA や同じくオリンピッ クの関連団体である LOCOG(London Organising Committee of the Olympic and Paralympic Games:ロンドンオリンピック・パラリンピック組 織委員会)に対して、オリンピック期間中における 民間企業向けのビジネス継続のための小冊子を作成 するよう要請した。Yates 氏はその策定の中心としてかかわった人物でもある。Yates 氏は「ほかにい ろいろな業界について精通している人を集めて、政 府がどう対策を考えているか、民間はどう考えてい るかを融合して、BCP について何か提示できない かと思って小冊子を作った」と振り返る。
■もし従業員が集まらなかったら?
小冊子 「Preparing your business for the games: オリンピックに向けたビジネス対策」では、オリン ピック期間中、以下のような状況をイメージして BCP を策定、あるいは見直すことを勧めている。
1、もし、十分なスタッ フがいなかったらどうなるか。
2、もし、交通網が麻痺したら。
3、もし、 あなたのサプライチェーンが影響を受けたら。
4、もし、あなたの事務所に立ち入れなくなったら。
5、もし、ゲーム期間中に重大な事故や、危機が発生したら。
その上で、BCP のアドバイスとして、次の5点を提案している。
・ 事業活動においてどのような側面が重要で、オリ ンピックゲームがどのようにそれらを途絶させるか考慮すること。
・ 事業の鍵となるようなサービスと製品を提供し 続けることができるように、事業の中断に対処す るための戦略を決定し、経営資源(人、建物、テ クノロジー、調達品、投資家)などについても考慮すること。
・ この戦略を実行するための事業継続計画をつくること。
・ 大会までの準備期間中に、実際に計画を訓練してチェックしてみること。
・ 計画の重要性が組織のすべてのレベルで理解されるように落とし込むこと。
このほか、具体的に考慮すべき点と解決のヒントが、従業員、インターネットとリモート環境、通信、 交通(鉄道、道路) インフラ、運送、サプライチェーンなど項目別に詳しく示されている。
■見えているリスクに確実に備える
BCP は本来、 不慮の災害や事故に備えて作るものだ。 特にイギリスは、日本の地震のように特定の大災害が 多発することはなく、むしろ、テロなども含め幅広い リスクに備える必要があるため、1つの災害だけを想 定して計画を作るのではなく、 「もし建物に入れなく なったら」「もし交通機関が動かなくなったら」「も 、 し人が集まらなかったら」など、 災害や事故によって、 結果的に経営資源が受けるだろう被害を考え、そうし た事態になった場合に、いかに事業を継続させられる かという観点から BCP を作るのが主流だった。
しかし、今回の“オリンピック BCP”は違う。 Yates 氏は、オリンピックで予想される事業を混乱・ 途絶させる要素は特定できているので、それらに備えなくてはいけないとする。
確かに、オリンピックは、いつ始まって、いつ、どこに何人の観光客が来るのか、それにより、どこでどのような問題が発生するのかが予想しやすい。
この明確に見えているリスクに対して事業を中断させないことで、オリンピックというビッグイベントが もたらすビジネスチャンスを生かし利益を最大化させるという考えがオリンピック BCP の根幹にある。
Yates 氏は、 「企業は、オリンピック期間中にさま ざまなリスクが発生しても、通常通りにビジネスを続 けなくてはいけない」と話す。盛んに使った言葉が BAU(Business as Usual:通常通りのビジネス)だ。
Yates 氏は、 「最初にやらなくてはいけないことは 通常というのがどういう状態なのかをきちんと特定し てもらうことだ」と言う。ビジネスには好調な日もあ れば、調子の悪い日もある。しかし、 「通常がどの状 況なのかわからなければベンチマークにはならない」 (同) 。その上で、BAU を達成するための最低限のリ ソースはどれだけ必要なのか、どのような組織体系で それを実現できるのかを考えることが大切だとする。
ポイントとして Yates 氏は、ビジネスの全体像を 俯瞰することを提案する。自社だけでなく、サプライ ヤー、さらにはインフラや物流、設備のメンテナンス など、自分たちをサポートするさまざまな業者までを 含め影響を考えるということだ。
「これまでずっと BCP の仕事をしているが、オリン ピック対策については、レジリエンスという言葉を使 いたい。曲げた棒が、元の形に戻るような状態。その レジリエントな状態を維持し続けなければならない」 (同) 。
最大の問題は交通
オリンピック期間中に想定されるリスクで、最も懸 念されているのが交通だ。特に、地下鉄は 1863 年に 開業と、世界最古の歴史を誇る一方、ホームや車両が 狭く、冷房設備がほとんどの車両に取り付けられてい ない。おまけに、乗降駅名が正しい切符を持っている のに、自動改札口で扉が開かず、通り抜けられないこ ともしばしば。オリンピックで大量の観光客が押し寄 せれば大混雑によって運行が乱れるばかりか、熱さに よる熱中症患者の発生も心配される。
ロンドン市内とオリンピック会場を結ぶ高速鉄道 「ジャベリン」もあるが、ジェベリンに乗るまでにも 地下鉄を使う人が多いことが予想されており、混雑は 避けられそうにない。 Yates 氏は「日常的にも問題がないわけではないの に、そこに何倍もの人が押し寄せるのだから問題が発 生する可能性は高い。しかし、設備の更新や施設の拡 張をするとなれば、新しいものをつくる以上に金がか かる」とハード対策の打ちようがない状況を明かす。
そのためか、TfL(Transport for London:ロンド ン交通局)では、交通対策のパンフレット(チェック リスト)を各企業に配布するとともに、ウェブ上でも さまざまな情報を発信、さらにオンラインでも混雑状 況の予測ができるようなツールを提供するなど、あら ゆる手をつくして市民や企業の理解と協力を求めてい る。地下鉄に張り出されている、混雑の回避を呼びか けるポスターも TfL によるものだ。
もちろん、この他にもテロの発生や暴動など、想定 が難しい脅威は依然として残るが、それらはオリン ピックに限らず、これまでもイギリスの政府や企業が 対策をしてきたことだ。
最大の商機を逃さない
夜間配達やスタッフの対策を強化
観光客で特に需要が期待される小売業界では、様々 なイベントが続く今年をここ数年間で最大の商機とと らえ、オリンピックに備えた事業継続の対策を進めて きた。
BRC(British Retail Consortium :イギリス小売協会) の Richard Dodd 氏によると、イギリスにおける昨年 の小売業界全体の売上は 3030 億ポンド(約 37 兆円) 。 今年のオリンピックでは 10 億ポンド(約 1230 億円) の増加が見込まれている。比率にしたら大した額とは 言えないが、それでも、ここ数年の財政状況からする と、取りこぼせない数字だという。しかも、ロンドン の小売の売上は、イギリス全体の 20%を占める。
Dodd 氏は、 「我々が抱える大きな問題は、配達とス タッフの問題」と語る。
交通渋滞が続けば、 各店舗に商品が運び込めないし、 従業員が店に来られなければ少ないスタッフで、通常 より何倍も多い客の対応をしなくてはいけない。
「一般的にはオリンピック期間中に BAU(Business as Usual: 通常通りの営業)ができるようにすることが 求められているが、我々は、普段より何倍もの多くの客が来る状況で仕事を続けられるように Business as Unusual(通常の状況ではないビジネス)の計画を立 てることが求められている」と Dodd 氏は、対策の重 要性を強調する。
BRC には現在、約 90 社の大手小売業者をはじめ、中小企業の小売店、オンライン業者を含め UK 全体の 80%が加盟する。同団体では、昨年8月に、会員数百 人を集め、オリンピック対策のカンファレンスを開催 した。テーマは「いかに困難を乗り越えて、売り上げ を最大化させるか」 。数人の講師による発表と、質疑 などで盛り上がったという。
Dodd 氏によると、現在、会員企業が行っている対策は、在庫を多めに抱えることや、日中を避け夜間に 配達をすること、そのためにエンジン音の静かな車両 を使ったり、 積み下ろしの倉庫を防音にすることなど。 また、仮に従業員が交通渋滞などで出勤できなかった 場合に備え、他の店舗から応援を回すようなシフトの 組み替えについても検討しているところがあるとする。特に需要が見込まれるブランド品や土産品などを 扱う企業は、それだけ対策も進んでいるようだ。
一方、大量の買い物客が来ることで問題になるのが セキュリティと安全対策。Dodd 氏は「犯罪やテロに 備えるとなると、出入り口を小さくして要塞のような 店舗にせざるを得ない。しかし、それでは消費者の買い物がしやすい状況とは逆になってしまうため、各社 とも費用対効果を考えながら、できる範囲でしか対策 を打っていない」と説明する。
最も起きてほしくないリスクは何かとの質問に対して、Dodd 氏は「一番大切なことは、人がたくさん来 てもらえるようにすること。人の動きを妨げることは 何でも好ましくない。交通の途絶、テロ、テロが起き るという風評、それから天気が悪いことも困る」と答えてくれた。
誌面情報 vol32の他の記事
おすすめ記事
-
-
入居ビルの耐震性から考える初動対策退避場所への移動を踏まえたマニュアル作成
押入れ産業は、「大地震時の初動マニュアル」を完成させた。リスクの把握からスタートし、現実的かつ実践的な災害対策を模索。ビルの耐震性を踏まえて2つの避難パターンを盛り込んだ。防災備蓄品を整備し、各種訓練を実施。社内説明会を繰り返し開催し、防災意識の向上に取り組むなど着実な進展をみせている。
2025/06/13
-
「保険」の枠を超え災害対応の高度化をけん引
東京海上グループが掲げる「防災・減災ソリューション」を担う事業会社。災害対応のあらゆるフェーズと原因に一気通貫の付加価値を提供するとし、サプライチェーンリスクの可視化など、すでに複数のサービス提供を開始しています。事業スタートの背景、アプローチの特徴や強み、目指すゴールイメージを聞きました。
2025/06/11
-
-
リスク対策.com編集長が斬る!今週のニュース解説
毎週火曜日(平日のみ)朝9時~、リスク対策.com編集長 中澤幸介と兵庫県立大学教授 木村玲欧氏(心理学・危機管理学)が今週注目のニュースを短く、わかりやすく解説します。
2025/06/10
-
その瞬間、あなたは動けますか? 全社を挙げた防災プロジェクトが始動
遠州鉄道株式会社総務部防災担当課長の吉澤弘典は、全社的なAI活用の模索が進む中で、社員の防災意識をより実践的かつ自分ごととして考えさせるための手段として訓練用のAIプロンプトを考案した。その効果は如何に!
2025/06/10
-
-
緊迫のカシミール軍事衝突の背景と核リスク
4月22日にインド北部のカシミール地方で起こったテロ事件を受け、インドは5月7日にパキスタン領内にあるテロリストの施設を攻撃したと発表した。パキスタン軍は報復として、インド軍の複数の軍事施設などを攻撃。双方の軍事行動は拡大した。なぜ、インドとパキスタンは軍事衝突を起こしたのか。核兵器を保有する両国の衝突で懸念されたのは核リスクの高まりだ。両国に詳しい防衛省防衛研究所の主任研究官である栗田真広氏に聞いた。
2025/06/09
-
危険国で事業展開を可能にするリスク管理
世界各国で石油、化学、発電などのプラント建設を手がける東洋エンジニアリング(千葉市美浜区、細井栄治取締役社長)。グローバルに事業を展開する同社では、従業員の安全を最優先に考え、厳格な安全管理体制を整えている。2021年、過去に従業員を失った経験から設置した海外安全対策室を発展的に解消し、危機管理室を設立。ハード、ソフト対策の両面から従業員を守るため、日夜、注力している。
2025/06/06
-
福祉施設の使命を果たすためのBCPを地域ぐるみで展開災害に強い人づくりが社会を変える
栃木県の社会福祉法人パステルは、利用者約430人の安全確保と福祉避難所としての使命、そして災害後も途切れない雇用責任を果たすため、現在BCP改革を本格的に推進している。グループホームや障害者支援施設、障害児通所支援事業所、さらには桑畑・レストラン・工房・農園などといった多機能型事業所を抱え、地域ぐるみで「働く・暮らす・つながる」を支えてきた同法人にとって、BCPは“災害に強い人づくり”を軸にした次の挑戦となっている。
2025/06/06
※スパム投稿防止のためコメントは編集部の承認制となっておりますが、いただいたコメントは原則、すべて掲載いたします。
※個人情報は入力しないようご注意ください。
» パスワードをお忘れの方