勝利と三国干渉

日清戦争は日本軍の勝利で終結し、明治28年4月17日、日本側全権伊藤博文、陸奥宗光、清国側全権李鴻章、李経方が下関の春帆楼で講和会議をもち、出講和条約に調印し後に批准書を交換した。下関条約(日清講和条約)の主な内容は(1)朝鮮の独立の承認(2)遼東半島、台湾、澎湖列島の割譲(3)賠償金2億両(テール、約3億円、当時の日本政府国家予算の3倍半とされる巨額)の支払いーなどであった。

講和条約締結からわずかに6日後、ロシア、ドイツ、フランス3国の在日公使が相前後して外務省を訪れ、外務次官・林董(はやし ただす)に面会して、本国からの遼東半島を日本所有とすることに反対する旨の口上書を提出した。三国干渉である。大鳥圭介は外務大臣陸奥宗光宛に書簡を送った。

「(前略)。偖(さて)昨今諸公が心魂を砕事は、露独仏に対し金州半島(遼東半島)の取捨如何の点に可有之哉に被察候。右は左まで心配可致大事件とは不被存候。愚説を左に記し為御参考申上候。三国の申分は金州半島を日本は永久所有するや、又は一時の占領に止まる主意なるやの点に有之候。
日本は之に答えて曰く、我邦は彼地を永久所有の考えには無之、一時戦勝の利にて之を占領候に止まり、清国に対し償金払込其の外の約定実行迄を目的とし、条件皆済みの上は清国へ返還すべしと云うべし。
金州返還の期は三年または五年の後に在るべし。故に今俄(にわか)に海戦を三国に対して開くは極めて拙策なり。且つ又甚危し。(以下略)
五月五日                     圭介
 外務大臣殿」(「伊藤博文関係文書」)。

大鳥が書簡で提案する、清国が条約上の義務を履行するまでは遼東半島を占領する権利を持つ、との日本側の解釈はドイツ、ロシアが拒否した。書簡と同じ日付の5日、外務大臣陸奥宗光は三国政府に回答を出した。

「日本帝国政府は、露、独、仏三国政府の友誼(ゆうぎ)ある忠告に基づき奉天半島を永久に占領することを放棄することを約す」。三国干渉に対する外交上の敗北宣言であった。

参考文献:拙書「大鳥圭介」、国立国会図書館及び筑波大学附属図書館文献。

(つづく)