嘉納治五郎像(筑波大学キャンパス)

愛弟子の小学校教育

NHK大河ドラマ「いだてん」に 触発されて講道館創始者・高等師範学校(現筑波大学)校長嘉納治五郎のエピソードを探してみた。その一部を紹介したい(先の連載記事で嘉納論最終回を約束しておきながら破約になったことをお詫びする)。

19世紀末(明治後期)、ヒューマニズムの実践ともいえる「活動主義」「自然主義」の教育を最も早い時期に、理論体系を伴った形で提唱した教育者の一人が樋口勘次郎(1872~1917)であった。「日本教育史」(山本正身)を参考にする。

樋口は長野県諏訪の出身で、明治28年(1895)に高等師範学校を卒業後、同校付属小学校の訓導(エリート教師)となった。当時、高等師範学校を卒業して小学校の教員になる例はほとんどなかった。旧制中学(現高校)か地方の師範学校(現教育系大学)が主であった。だが、恩師・高等師範校長嘉納治五郎の指示もあってこの人事を快諾した。樋口は23歳の青年教師であったが、校長嘉納の期待に応えて教授法の研究と教科書の改良に打ち込み、その成果を「東京茗渓会雑誌」に発表した。樋口の教育法を象徴するもののひとつが、有名な「飛鳥山遠足」である。

明治29年(1896)11月、樋口は師範付属小学校2年生の生徒37人と上野・飛鳥山間往復約6キロを遠足し、自然や地理、産業や博物などの教材を実施、実物に触れさせることを通じて学習させた。当時遠足は学校行事として一応定着していたが、その意義が教授活動との関連で理解されることは稀(まれ)で、むしろ軍事訓練的色彩を帯びた身体鍛錬の手段とみなされる傾向にあった。それに対して、樋口は遠足に教育指導の一環としての教授活動として方法的意義を与えた。非軍事的指導である。このリベラルな発想に樋口の斬新さがあった。樋口の教授実践の試みは、その著「統合主義新教授法」(1899)に一つの理論体系となって結実される。

樋口の教授論の基調として、子どもの自発活動に大きな価値を認めようとするとともに、教授における「統合」を重視する方針が明確に打ち出されている。飛鳥山遠足の活動が、動物学、植物学、商業、工業、地理、地質、人類学、物理学、詩(文学)、修身、作文などの学びを統合するものであることが強調されている。樋口にとって、子どもは単なる教育の客体ではなく、自らの学習を自主的に推し進める「主体」として理解されていたといってよい。児童の豊かな感受性を涵養する樋口の先見性に富んだ教育方針に注目し、大いに支えたのが嘉納であった。