解任と開戦

同日、袁世凱が突然帰国した。日清の対決が避けられないとの判断から「天津に帰って最大の実力者・李鴻章と善後策を講ずる」と言い残して帰国した。朝鮮政府首脳は、清国を頼りにしてきただけに困惑した。大鳥は戦争の長期化を予測した。内政改革問題を実現させるためには、朝鮮国の中枢に日本に協力的な傀儡政権を作っておく必要があった。そこで工作されたのが大院君の担ぎ出しであった。国王の実父でありながら、大院君は閔妃によって追放され、幽閉同様の生活を強いられていた。大院君は閔妃に対する恨みはあるものの、日本に協力することには消極的であった。

23日深夜、朝鮮政府から清国に撤兵を求めているとの機密情報が入った。だが日本側の作戦変更はありえなかった。同日午前0時半、公使大鳥は旅団長大島に「計画開始」の電文を発した。午前4時、ソウル南2キロの龍山に駐留していた日本軍が王宮の景福宮に進攻して占拠し、国王を日本軍の勢力下に置いた。午前6時半、公使大鳥は外務大臣陸奥に電報を打った。

「朝鮮政府の回答不満足につき王宮包囲の処置をとるにいたる。23日の早朝、此の手段を施し朝鮮兵は日本兵に向かって発砲し双方互に砲撃せり」

大院君は日本側の説得には応じなかった。書記官杉村は大院君に直接面会を求めた。大院君は「日本政府は朝鮮の領土を奪わないと約束できるか」と問うた。杉村は「決して朝鮮の領土を割くようなことは致しません」と書いて署名した。大院君は日本側の要求をのむことになった。大院君は公使大鳥を引見し、「これから国政を総裁せよ、との勅命を国王から受けた」と告げ内政改革は大鳥と相談して進めると約束した。その後、国政総裁の大院君は公使大鳥に対し、清国・朝鮮宗属関係の破棄を宣言し、牙山の清国軍の撤退を依頼した。日本軍は清国軍攻撃の「口実」ができた。
                    ◇
広島の師団司令部に設営された大本営の決議を受けて、連合艦隊は、7月25日、豊島沖海戦で巡洋艦浪速、艦長・大佐東郷平八郎)が清国兵を輸送中の高陞(こうしょう)を攻撃し撃沈した。日清開戦となった。地上戦では混成旅団が30日早朝、増援を絶たれた清国軍を壊走させ、ソウル南方の牙山を占領した。陸海にわたる緒戦の勝利だった。8月1日、日清両国は正式に宣戦を布告する。

陸海軍の戦いは日本軍優勢に運んだ。連戦連勝の報道に日本中が沸きかえり、宣戦の火ぶたを切った公使・大鳥圭介は「国民的英雄」に担ぎ上げられた。ところが王宮を占拠したものの朝鮮の内政改革は一向に進まなかった。日本に好意的な穏健開化派による軍事機務処が設置され、改革のための法案が決定された。だが大院君がことごと反対して承認の印を押さない。そこで総理大臣らによる新行政機関を組織することになった。

8月26日、大鳥は朝鮮国外務大臣・金允植との間で日朝攻守同盟を締結した。清国を標的にしたものである。

王宮を占拠した最大の目的である朝鮮国の内政改革は、遅々として進まない。戦いは日本有利で進んでいるが、予断は許さない。日本の国内世論は次第に「大鳥公使は何をしているのか」との批判めいた論調となった。国内の高まる批判を無視できなくなった総理大臣伊藤は、公使大鳥の更迭を考え出した。同じ長州閥の内務大臣・井上馨に内密に相談した。井上は大鳥の後任として自分が朝鮮に赴任すると言い出した。

現地で指揮をとる大鳥は不満であった。開戦に並々ならぬ努力をし、しかも戦争は有利に運んでいる。朝鮮国の内政改革が遅れているとの理由だけで更迭されるのは理不尽である、との憤懣がこみ上げる。

結局、大鳥は枢密顧問官との要職を与えられるとの条件で解職となった。明治27年(1894)10月11日、大鳥は公使を正式に解任され帰朝することになった。今回は<敗軍の将>ではなかったが、半ば詰め腹を切らされての帰国である。新公使井上は、さしたる成果もあげられず1年も経たないうちに自ら推薦した三浦梧楼(長州閥、貴族院議員)と交代せざるを得なくなった。明治28年(1895)10月8日、三浦は書記官・杉村らと計って閔妃暗殺事件を実行し、罷免・投獄されるが、裁判では無罪となる。