ホーレス・ケプロン(北海道開拓使時代)

北海道では米国人活躍

「北海道の雄大な景観(ランドスケープ)にはアメリカ的な雰囲気が感じられる」。こう語る内外からの観光客が少なくないという。なぜか? 明治維新以降、北海道の開拓・殖産興業・高等教育はお雇いアメリカ人が中心となって推進されたのである。ここに他府県とは異なる大きな特徴がある。その中心人物こそがホーレス・ケプロンなのである(以下、「北海道の歴史」(山川出版社)、「お雇い外国人 建築土木」(村松貞次郎)などから引用する。
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明治元年9月8日(西暦1868年10月23日)、徳川幕府が崩壊して明治の世になったものの、会津藩をはじめ東北諸藩の叛乱(戊辰戦争)があって、戦火はついに蝦夷地(現北海道)に及んだ。一方で、ロシアの樺太への進出は日を追って激しさを増していた。そのため、明治新政府は1869年(明治元年)4月、箱館(現函館)裁判所を置いて北海道の新政を行うことにした。

その間、東北の内乱は相次いで鎮圧されたが、敗軍の将兵は旧幕臣榎本武揚や同大鳥圭介らの率いる幕府脱走兵と合流して箱館を占領し、松前藩を陥れて五稜郭を本営として独立政権を打ち建て、薩長閥の明治新政府に対抗しつつあった。新政府はその威信にかけても旧幕府勢力を打倒しなければならなかった。翌年5月には精兵多数を送り込み、五稜郭を落城させて戊辰戦争は終結した。

政府は1869年(明治2年)7月、開拓使を設置し、8月15日には蝦夷地を「北海道」と改めて開拓事業に着手した。

同年9月、開拓長官東久世通規禧(みちとみ)は判官島義勇らを伴って箱館に到着し、箱館の名称を函館に改め、開拓使出張所を設置した。札幌には本府建設のために島判官が派遣された。全道の開拓拠点として、ロシア南下の脅威からいっても、北海道南端の函館よりも石狩平野に位置する札幌が本府(「北の守りの拠点」)として最適と判断された。

翌明治3年(1870)5月、薩摩閥の雄黒田清隆が開拓次官に任ぜられ、樺太専務を命じられた。樺太と北海道西海岸をくまなく視察して帰京した黒田は、同年10月、北海道・樺太の定額金を150万両とすること、外国人(特にアメリカ人)技術者の招へいと留学生の派遣などを内容とする建議を行った。